情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

AV=恋愛ドラマ

多くの女性に怒られそうですが、

男性がAVを見たいと思うのと、女性が恋愛ドラマ(もしくは漫画)を見たいと思うのは同じだ。

というのが私の最近の持論です。

 

科学的なデータの裏づけとかは皆無ですが、「シミュレーションによって自分の性別の性的感覚を満たしている」のであれば、物質的であれ精神的であれ、本質的には同じようなものなのだろうな、と思うのです。

要はAVも恋愛ドラマも、男性ホルモン、女性ホルモンなどの身体的バランスの調整をするのに必要なものなんだろうと思う。

その意味で身体的には必要(な時があり得る)だし、精神的には下らなくもある。

 

AVを見る男性の気持ちは女性には理解しがたいけど、恋愛ドラマを見る気持ちくらいなら、基本そういったものを見ない女性でも何となくはわかるだろう。

ならば「(男性の)AV=(女性の)恋愛ドラマ」という形で二つを結んでおけば、男女がお互いを理解しやすくなるだろう。

女性がそれを認めない可能性は高いけど。

 

仮にこの「=」を女性が認めた場合・・・

男女のカップルが「お互いを許す」論理にもなるし、また逆に「お互いを否定する」論理にもなります。

どうぞご自由にお使いください。

虫を殺す

生まれてこのかた、虫を殺したことのない人っているのかな、とふと思う。多分、いない。

感覚的であればあるほど、虫を簡単に殺し、害虫呼ばわりをしても気にならず、特に虫の命について考えずに暮らせる。内省のない感覚。

そういう言い回しをしてみるとまるで批判しているように聞こえるが、私はそれを批判していない。私はそれはそれで格好良いことだと思っている。

 

私は幼少時から虫を殺してはいけない、という教育を受けてこなかった。なぜなら東京の団地には無数のゴキブリがいるのだ。ゴキブリは殺す対象ということで満場一致。間違いがなかった。

母は私にゴキブリを「命」と結びつけて語らなかったし、「ゴキブリは殺して良くて、森の中にいる虫や植物は愛でよ」というような命令が伝えられることがなかった。そこには矛盾がなかったので、思考が生まれることもなかった。

 

けれども大学に入って周りにハイソな人間が増えてから、環境が変わった。自称ブディストや金銭的に余裕のある暮らしをしていると思われる子息たちの間では、「虫をできる限り殺さない方向性」が良識として膾炙していることに気づくこととなった。

 

私は面食らった。虫を殺してはならないのか?と彼ら各個人に尋ねて回った。

心ある彼らは断言はしない。彼らの知恵は、自分に矛盾があることを予めよくわかっている。ただ、殺すことをよからぬと思う心を大切にしている模様だった。

 

私はしばし考えた。

虫を平気で殺す心と、無駄な殺生をしない心と、どちらが格好いいだろうかと。

私はどちらも格好いいと思った。

文面にしてみると、どうも後者の方が格好良いように聞こえてしまいがちだが、前者は本能と結びついていると思うから、やっぱりそれはそれで格好いいと思うのだ。

ここで前者の感覚を本能と言ってしまうと何だか曖昧な表現になる気がするので、例を出したい。

 

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以前、私は金沢文庫にある珍しい生き物のいるミニ動物園(ペットショップ)で、4つそれぞれのケージの中にいる4匹のリスザルを見たことがある。

私がそのうちの一匹に自分の指を握らせていた時のことだ。4つのケージの前を一匹のハエがサーーッと通った。

すると4匹の猿たちそれぞれが、ラインダンスのように、サッ、サッ、サッ、サッっと手を檻から出して、その虫を捕まえようとする仕草をするのを私は見た。

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それは直感的なものだ。

もちろんそこに善悪の観念はない。

命の重みを考える心もない。

いや、動物と人間は違う、人間は自然の回路から逸脱した思考を持っている、選択することの出来るだけの知性を持っている・・・そのように考えると、確かに無駄な殺生をすべきではないという結論が出る。

しかし本当は人間はいつまでも自然の中にいる。

自己を照らし内省する鏡を持つ人間は、ただそのような自然の中にいるのだと私は思っている。

私たちは内省のための鏡を持っているが、常にそれを見ているわけじゃない。

だから命は重くもあり、軽くもあらざるを得ない。

私たちはいつも命の重みばかりを語られる傾向にあるが、その実、命の儚さをあまりにもよく知っており、そこに何の罪もないことも十分に心得ている。

無駄な殺生はしない・・・そのことが美徳として語られうること。

そのようなことは全て、矛盾に耐え難き魂の、エクスキューズに過ぎないのだ。

 

と、頭の中ではそのように世界を観じながらも、大学以降、私は虫に出くわすたびに殺すことを躊躇するようになった。外出時はそのような問いはないが、それでもなるべく踏まないようにする。家で出くわすと、蚊とゴキブリ以外は捕まえて部屋の外に出すようになった。殺さないことも出来るにも関わらず、殺してよいものかどうかがわからないのだ。

だが蚊ならどうする。ゴキブリならどうする。蚊を叩くときは躊躇とともに遠慮気味にはたくので、大抵つかまらなくなってしまったが、ゴキブリはお湯をかけて殺してきた。何れにしても、それで良いかどうか、一つ一つ思考に軽く触れながら暮らす。そういう暮らしに慣れてきた。

 

ところでつい最近、結婚して初めて配偶者のお墓まいりに行き、古いお墓を埋め尽くそうと侵食する夏の植物たちを刈っている人の姿を見て、目がさめるような矛盾を感じた。

一方では死者の命を尊びながら、一方では(同胞ではないにしろ)生者の魂をいとも容易くハサミと鎌で傷つけている瞬間・・・私はそのくっきりとした境界線を見た。

 

私たちはただ何かを保護したり、ただ他なるものに何かを与え続けたりすることは決して出来ないがゆえに、そこに自己の利己的な心を見出さざるを得ない。自己の利己心への自覚は他人への猜疑心にもなる。意識するかしないかは別にしても、全ては与えられるか奪われるかという力の関係を持っていて、その関係の拮抗をふとした瞬間に自覚してしまうのが人間だ。

私たちの自然とは、それがそういうものと知りながら付き合っていかなければならない自然だ。それは矛盾に満ちている。そのような人間特有の矛盾に満ちている視点を、私は現実社会とは呼ばず、またそれを自然と区分けして考えるのでもなく、あえて自然と呼ぶ。

私たちはそういう矛盾から生まれる諸々の感情に開き直るでもなく、否定するのでもなく、白黒つけずにただ静かに受け入れることが良い。

気づけばふと虫を殺していることもあるだろう。守っていることもあるだろう。どうすべきかと迷って苦しんでいる時もあれば、殺したことに気づきもせず笑っていることもあるだろう。

でもそれが私たちにとっての理想的な自然の形態なのだ、と最近は思う。

中島みゆき『糸』

言わずと知れた名曲。興味深いのは出だしの歌詞。

 

なぜめぐり逢うのかを 私たちは何も知らない

 

私はこの歌い出しにいつも聞き入ってしまう。

このフレーズは無意識のうちに、誰かと誰かの出会いに「意味(理由)」があることを前提させているように思う。

よくよく考えてみれば、本来は「出会いの意味」といったようなものがあるとは限らないにも関わらず。

 

この、たった一文の歌い出しで、出逢いに意味が存在しているかのように聞かせ、そしてまたその意味を知ることが決してないという、不可知なものに弄ばれている人間の儚さを伝えるメロディーの秀逸さ。それはそれはすごいことだ。

 

続けて次の歌詞を見てみます。

 

どこにいたの 生きてきたの 

遠い空の下 二つの物語

 

この「遠い空の下」と「二つの物語」の部分で、私は「私」でも「あなた」でもない、それを俯瞰する神のような視点を感じている。

ここで私は「奇跡的な確率によって巡り合わせた出会い」を連想させられ、運命的なものを感じさせられている。

 

けれども、そのような「奇跡的な確率によって生まれた出会い」に一体何の意味があるのか?・・・そのことが不確かなまま歌は進行してゆく。

中島みゆきは「奇跡的=意味がある」などと単純でつまらない思考をしない。(と私は思っている)

この点について漠然と感じられていることを考えるのに、サビを見ていきたい。

 

サビでは人との出会いを通じて、「誰かと私が一体となって、他の誰かに意味をなす可能性が歌われている。一番有名な部分だ。

 

縦の糸はあなた 横の糸は私 

織り成す布はいつか誰かを 

あたためうるかもしれない

 

潜在的なイメージを洗い出してみると・・・

 

まず、私たちは「糸」のか細さに儚さを感じる。

そして次に私たちは、一本一本の「糸」から織り成された「布」に決して強くはない力(ここでは意味に等しい)を感じる。

だが「糸」が「布」となることは、まだ「意味」において非力である。

もっと言えば、私たちが生きている中で、何か確実な「幸せ」や「意味」を感じられるかはわからない。

けれどももし、私が誰かと出逢い、一体となることで生まれた「布」が、他の誰かをあたたられるかもしれない、その可能性を感じてみたならば・・・

そのことにはもしかしたら意味があるかもしれない。

(私はここで、生まれたばかりの子供や、寒さに震えている人間を想像する。つまり温められなければならない人を想像している。)

 

と、こんな感じで私はこの歌を聴いていると思う。

 

一般に人は、生きることに意味があってほしいと、意識的であれ潜在的であれ、どこかで願っている。

一方で、生きることの意味を知ることは出来ないがために、漠然とした儚さを感じている。

このサビの部分の「誰かを あたためうるかもしれない」という非断定には、生きる意味への「願い」と、断定できない意味での「儚さ」が感じられるのだ。

 

そしてこの「あたためる」という言葉に、私はさらに深い意味を感じている。

というのも 「あたたかい」という感覚的な快楽が、「幸せ」というような曖昧な概念とは違って、誰もが感じたことがあるであろう普遍的なよろこびの一つだからだ。

ここに聞き手は、一種儚いながらの「確実さのある意味」のようなものを、不確定なままに見出すのだが、このことは他方、この歌詞の持つ視点が「幸せ」といったようなものを、確実な生きる意味として捉えていないことを露呈している。

 

この歌は人と人との出会いの意味と、また生きる意味と、双方を考えさせる歌だが、1番でも2番でも、私と誰かが織り成した布が「誰かをあたためうるかもしれない」「誰かの傷をかばうかもしれない」といった表現がなされるばかりで、直接的に意味をなすであろうことは語られていない。そのようにして、出会いや生きる意味の儚さや不可知さへの感度が一定に保たれている。

同時に、この歌において出会いや生きる意味は、決して「幸せ」という言葉では語られない。歌を聴いている人々の中に当然のごとく連想されてくる「幸せ」という言葉については、最後にこのようにうたわれて締めくくられている。

 

逢うべき糸に出逢えることを

人は仕合わせと呼びます

 

「幸せ」ではなく「仕合わせ」。

それは主観的な感情に与える名詞としてではなくて、「何かと何かの巡り合わせが良いこと」として、すなわち辞書の意味どおりに、極めて客観的に描かれている。