大人になると本当のことが言えなくなる
「大人には本音と建前がある」と思われているくらいなら、それはまだ救いようがある。
何が本音かが明らかであるからだ。
そうではなくて、大人になると本当のことがわからなくなり、そして言えなくなってくるのを感じる。
心の奥底で、本当のことのように思われていることが一体何なのかがわからないのだから、基本的には気にしていない。気にしようがない。
ただ時々、誰かの語気の強い語りがかつての自分に突き刺さる時、「ああ、自分には本音がなくなっているのだな」と気づく。
別に大人になるというのは悪いことじゃない。
私が問題にしているこのことの本質において、大人になるということは「一般的なるもの」に準ずるようになること、である。
ある物事の背後にそれ以外の可能性を、より多く感じられるようになること。
そしてそれは精神が中庸状態になることでもあり、「それもわかる、あれもわかる」(=物分りが良くなる)が故に、明確な批評精神を失いかける、ということでもあるが、
他方、対峙する物事の仲裁を行うことが出来るような知性が備わってくる。
でも、何かをきっかけに、ふとかつての自分の思いが一旦前に出てきてみると、
それを失ってしまった自分に気がついた私は、寂しい。
大海に落ちた一滴の水のような、拠り所のない気持ちだ。
人は色々な人の思いに共感するうちに、自分が誰だかがわからなくなる。
人と思いを共有することにはそれ自体に価値があるように思われるのに、
それ自体は成長であったはずなのに、
自分自身というものが消えて、何を見ても共感出来るようになった私は、
本当は何にも感動していないのではないか?・・・と疑われてくる。
あれも、これもと、様々なものを美しいと感じる心が、
よどみなく流れる川のようになってしまったことを、
「消費者根性丸出しではないか」と批判する自分がまだどこかに残っているだけ、
私は自分自身が幾分かまだマシな方だと思いたいが、
何かを批判することもなく、中庸的で、自分自身も悩みのない者になることが、果たして私の人生の目的だったのだろうかと思うと、そうではなかったはずだと言わざるを得ない。
風水を哲学する1
最近引っ越しをした。
引っ越しをすると、気分が一新されて「インテリアをどうしようか?」という楽しい問題にぶつかる。
しかし哲学をする人間にとって「何かを選ぶ」というのはすごく難しいことだ。
一つのソファを選ぶのも、「本当にこれでなければならない必然性があるだろうか」ときたもんだ。
そんなこと考え出したら、疲れて頭が痒くなってしまう。
全てのことに必然性などないのだから。
・・・買いたくても買えない。
他人が欲しがるものを自分も欲しがるという「欲望」がないが故の悪循環に陥る。
仮に欲しいものがあったとしても値段が高すぎたりして、ノマド的人種が所有するには全く合っていない。
高いものを中古で売買するという手法もなくはないが、そこまでこだわりたいかというとそうでもなく・・・猫もいるから汚れるし・・・とか言っているうちに訳が分からなくなってくる。
いろいろ考えているうちに結論が出なくなり、結局スカスカの部屋で暮らす。
考えすぎる人間にはそういう「前に進めない」というデメリットがある。
それで、こういう時には古(イニシエ)の知恵に頼ろうではないか。と思ってみたりする。
これを機に風水でも学んでみよう。というわけだ。
風水というのは占いと同じで、「拠り所のない人たち」に、「拠り所を与えるもの」である。
結果として拠り所になりうるかどうかはわからないにしても、私だって、一度は鬼門がどうこう言ってみたい。「西側に黄色のものを置くとどう」とかいう縛りに苦しめられてみたい。
というのは嘘だけれども、そういうことを言う人たちが、どういうつもりでそういうことを言い出すのかを知りたいのだ。
そんな軽い気持ちで風水のアプリをダウンロード。
今時はお手軽なもので、「風水コンパス」というものがあって、方角にふさわしい色をスパッと教えてくれるので、ゲッターズ飯田いらず。
風水の基本的な考え方は、「気が良くなる=運気上昇」。
だから気をよくするために、方角の持つ「気」(水の気とか火の気だとか)に逆らわぬよう色を合わせて行ったり、幾つかの注意事項を守るというもの。
その注意事項のうちには根拠がわからず馬鹿馬鹿しく思えるものも沢山あるが、中には根拠がわかるようなものというのもある。
「ゴミ箱は蓋の閉まるものを使用する。」などが根拠がわかるいい例だ。
例えば台所のゴミ箱などだと、水気があるから単純に放っておくと腐乱したゴミに虫が寄ったり悪臭が漂ってくる。
アニミズム的視点の眼鏡をかけて見ればわかることだが、そこに良い自然の精霊がいるとは思われない事態となるから、その空間を遮断しつつ保ち、なるべくこまめにゴミは捨てましょう。ということだ。
これは人が「当然」と感じられるくらい、生理的感覚に等しいものだ。
部屋の中に「淀み」を作らないで、いつも「良い気」が循環しているようにすることが風水上、恐らく最も大事なことなのだ。
(こういうことを馬鹿馬鹿しいと思う視点も大事だと思うが、とりあえず風水はそんな感じだ)
「方角の持つ気」などについては、私には一体何の根拠があってそうなっているのか、現時点ではまるでよくわかっていないけれど、それらも恐らく気についての抽象的思考も出来る古代の専門家たちが思考に思考を重ねた末の結論なのであろうから、数年は保留しつつ考えることにして、、、
とりあえずは「気の淀みをなくす」という風水の基本が分かれば、あとは自分でその流れを感じ取る目を養い、それに応ずる家具の配置などを思考していけば良いのではないかと思う。
これは別に「原理がわかればあとは自分勝手にやっていい」という意味ではなくて、「視点の中枢に同じ原理が据えられれば、あとは大体同じような結論が出るであろうと思われる」、ということだ。
この意味ではルールに従って無理やりに整合性を取るよりも、「いま・ここ」にあるものたち、気の流れを自分で感じて、臨機応変に変更を加えていく方がよっぽど現実に即した形式を手に入れることが出来るだろう、ということである。
ミンクのマフラー
友達からミンクのマフラーをもらった。
見たことないほどの短さで、先っぽには磁気が付いていてスヌード風に使える。
よく知らないが、去年からのトレンドらしい。
プレゼントというものは、自分では絶対に買わないものを「急に」もらう。
この唐突感、飛躍感はまさしくシュルレアリスムである。
何しろ私の手元に突然アメリカミンクの毛皮がやってきたのだ。(中国や北海道で飼育されたものかもしれないけど)
私は最初それをミンクと気づかなくて、悪気なく「これ、何の動物を殺したの?」と言いそうになったが、相手が不愉快になるやも、、と思い、脳裏に浮かんだ言葉を押し殺しておいた。
そうしたらそのあとすぐに友達が、「私これ去年すごく欲しかったんだけど、買えなかった理由の一つが、これのために死んでいる動物が可哀想かなと思って・・・」と言ってきて(この友達の正直さもすごい)、「そうだよねえ!」と私は大きな声で言ってしまった。
私は一応、一通りこういうことについて考えたことはあるから、一通り考えを述べて・・・「人間の矛盾」の話になった。
友達もウンウンと理解した後で、「嫌なら他のものに変えてもいいよ。一日時間をあげるから考えて。私はこの冬はこれと同じものを買うつもりだけど。」と言った。
どうやら彼女は覚悟ができているようだ。
私は帰ってきてインターネット上を軽く調べた。
こういう議論に関してインターネットで出てくる情報と言えば、「No Fur!」運動に参加している芸能人の名前とか、まあ「それほど寒くないから使用の必然性がない」とか、「生きたまま皮を剥いでるかどうか」とか、そういうことだ。逆に毛皮肯定派の議論はあまりパッとするものがあまり無い。こういうものは自然と、否定する文脈の方が強くなるのだろう。
そもそも私は「このファー」(代替がきかない意味での「これ」)が欲しかったわけではないので、そういう情報を見ていると自然につられて、要らない方向に気持ちが進んでいく。
けれども、こういう「つられる」感覚にこそ注意しなければならないような気もしてくる。そもそも私たちは矛盾なく生きることはできないし、いつでも何かを犠牲にして生きているのに、しかもこと「動物の命」に関し、芸能人のNo Fur!運動などにつられて何かを決めてしまっては、却って自己の尊厳が傷つけられてしまうからだ。
私だって動物が好きだ・・・だが「かわいそう」という21世紀的な観点からだけで、人間の文明を安易に否定してしまっていいのだろうか、と考えてみる。
このとき私が想定している「人間の文明」とは、部族の身にまとっている野生的なファッションの事だ。私は実はああいうファッションにこそ生きることのリアルさを感じるし、そういう野生が私たちの中に、少ないけれどもまだ残存しているからこそ、ミンクが周り回って私の手元に来るのかもしれないぞ?とも思うのだ。ならばこれを受け入れてみるのはどうだろう?とも思うのだ。
それに、例えばもしこれが部族同士の贈与の一種だったら・・・と思うと、私はこの贈与を喜んで受け取ったかもしれないと思うのだ。(もちろん私の部族のトーテムによりけりかもしれないが)
ちなみに実際ミンクのマフラーを私にくれた彼女は外国人で(私よりも、動物の殺生に関して多少鈍感なところがある。)、だからこれは現代の部族間贈与っぽくもあるのだ。贈り物は、必ずしもシェアされていない「価値」が自分のところに訪れるのが一つの魅力なのであって、時にはギョっとするようなものを贈られるからこそ、自分自身の価値観を再編・再考する余地が生まれる。
「虫を殺す」でも書いたが、私は動物の殺生に鈍感な野生(言い方によっては「野蛮さ」)というものも嫌いではない。私が既にそうではあれなくなったからこそ、そういう鈍感さが何か純粋なもののように見えることもある。そしてその意味での殺生への鈍感さは、殺生ではない別の事柄への先鋭な感性でもあるだろう。
けれども私のような軟弱者は、「ついつい物欲しさでミンクを射止めてしまい、気づいたら毛を剥がして首に巻きつけちゃっていたの。」というほど、純粋な気持ちでこれを巻けるかというとそうではなくて、この物品の訪れに飛躍を感じ、気持ちに違和感を残してしまっている。
つまるところ、私は自分自身でその動物を殺す覚悟が出来るくらいのナチュラルな野生の感覚が自分の身体性にまだ備わっているのならば、こういったものを正々堂々と身につけていても良い、と思うっているのだろう。だが、私にはまだその覚悟が出来ていない。出来ていないから、違和感が残る。なにせ私が欲しかったから買った「ミンク」ではないのだから。
それでもやはりもしこれが本当に部族同士の贈与の一種であったならば・・・私はこれを家宝のようにして、ずっと携えて生きていくだろう。
ある時は首に巻きつけて、ある時は壁に垂らした装飾品として、ある時は緊急時に淫部を守るものとして・・・
その都度その都度、意味合いを変えて持ち続けるだろうし、そのように大切に出来る感性があるならば、私は堂々とこれを使える。
つまり、「いかに大切に使われるか」とか、またその「時間」も大事な要素だ。
けれども今私が暮らしているのは21世紀の資本主義世界、その交通の激しさから言っても、私は同じ場所に十年と暮らさないし、その場所その場所の気候や風土に適した自分に変化するために、多くのものを捨ててしまう(使わなくなる)だろうことも目に見えている。
だからこそ矛盾が矛盾として浮き彫りになりやすいのだ。
そしてこういうことが目に見えていながらこれをもらってしまえば、私はおそらく「意識的に」この頂きものを大切に保存することになる・・・。
そういう心理的な欺瞞があまりに多くなると、心の衛生上も良くないことが、大人になった今となっては目に見えてしまっている。
ともなれば、死んでしまったミンクも私も、ロストロストだ。
ミンクの死が生きるのは、私がこれを巻いてハツラツとしている時だ。
でも本当は私は、殺生に心を悩ます人間の心を持つ一方で、これをハツラツと巻ける、野生的な感性も欲しいと思っている。
この頂きもののファーを十年と保持し、いつか訪れるアフリカ旅行に嬉々として巻いていくような感性。
「なあに、アフリカは暑いからこんなのいらなかったわ!」とか言って、ポイっとバッグの中に投げ入れる感性。
あるいは「私は自分自身で射止めたミンクを体にまといたいの!」と言って、ミンク狩りに出かけてしまうような野生。
そういう感性が手に入る自信がまだないので、今回はとりあえず「他のもので。」と友人にお願いしたのだけれど、いや、頑張れば今からでもいけるかなあ・・・と思ったりして、ゆらゆらしている。
あるいはその感性を取り戻すために、このミンクは私の手元に回ってきたのだろうか・・・。