情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

靴下が揃う世界

 

私の母は理系で、変にロジカルだ。

そのせいで子供の頃、私の家では靴下が全く揃わないという事態が頻発していた。 

母は靴下を揃えて干さない。そして乾いた靴下をペアにしようともしない。

「両方洗濯機に入れたんなら、なくなる(揃わない)わけないでしょ。」

これが母の一貫した論理だ。

 

我が家は共働き家庭だった上に、府中から日本橋まで毎日1時間以上通勤電車に乗っていた母親は出勤時間が早かったから、私たち兄弟はいつも自分たちで朝食を食べ、着替えをし、靴下を履き、忘れ物のないようにランドセルに教科書や道具を揃え、自ら学校に出かけなければならなかった。

靴下の左右仲よく揃ったペアがまとめて洋服ダンスに入れられているなんてことは、一度たりともない。私たち兄弟からすると、そんな都合の良い話はテレビの中の出来事、すなわちフィクション的なものであった。

 

私たちの現実では靴下はビニール袋に入っていた。30、40足くらいの、靴下がビニール袋にまとめられていて、その中から一生懸命ペアを探すのである。

これは途方もない気持ちにさせられる作業で、なぜか自分で靴下を「狩って」からでなければ、学校に行くことはできない。本当に時間がなくどうしようもない時は「似てる」やつを履くしかない。

もちろん子供達は母親に文句を言う。靴下が揃わない、ペアにならない、なんでだ!と。

だが文句を言うと、母は必ずこう言い返してくるのだ。

「両方洗濯機に入れたんなら、なくなるはずないじゃない?」

私は子供の時それを聞くと、「確かに」という気持ちになって反論ができなかった。

妙にロジカルに母の問いは「もし(靴下の片方が)消えたのなら一体どこに?」という問いを含んでいて、なぜか逆に私が神隠しを主張しているような感じさえした。

ただ事実として、靴下は全然揃っていない。

 

しかもそんなに揃わないからといって靴下を諦めるわけにはいかない理由があった。と言うのも私は小学校二年生の時に、

「お前何で靴下履いてないの?ビンボー!」

と同級生に言われたことがあるからだ。

 

そういえば、その時も母に相談した。「靴下履いてないって、ビンボーなの?」

まだ何も知らない小学校二年生の娘に、母はこう答えた。

「なんで靴下を履かないことが貧乏ということになるの?うちに靴下がないわけじゃないから、貧乏ではないでしょう。むしろ履かないでいられるなんて、その人たちより健康的なんじゃない?」

私はそういわれてすごく励まされたが、その日以降靴下を履かない日はなくなった。

 

ところで、常識的な家庭に生まれることが出来たあなたはこう思うかもしれない。

「ビニール袋に揃わない靴下ががっさり入れられている家庭・・・まあなんてだらしないのかしら」

しかし恐ろしいことに、ビニール袋に入れられる前、大量の揃わぬ靴下たちは家のあちらこちらに散在していたのであり、大掃除をした時に、「わからなくならないように、ここに封じ込めておこう」としたことによって生まれたビニール袋という合理性は、私にとってはもはや疑うべき点のない、知恵そのものなのであった。

 

そんな私は、靴下というものは揃わないものなのだという信念を持って大人になった。だが無論、知恵は進化する。私たちは大人になる。何と、子供達の大小様々だった足のサイズが、皆、ほぼ同じ大きさに揃うという素晴らしい時代が到来した。

「もう揃わない靴下は嫌だ。我々は全く同じサイズ且つ同じデザインの靴下を、大量に揃えようじゃないか!」

意気揚々誰かがそう言うと、満場一致でそのアイディアは採用された。

だから私は大学時代、男物の靴下しか履くことがなかった。

比率的には女性の方が多かった気がする我が家で、家族皆が共有出来るサイズの、「男物の靴下25.0-27.0」を20足くらい一度に購入し、家族全員がそれを履いて問題のない暮らしをしたのである。

 

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その後私は親戚の家に居候をしたりしながら暮らしてきたのだが。

その都度、驚くことがある。

それは、靴下が異様に揃うということだ。

 

「・・・靴下が揃っている・・・・」

 

靴下を干すたびに、私はいつもそう感心してしまい、誰かにメールしてしまったりする。今はここに文章にすらしてしまっている。

本当に、あまりに靴下が見事に揃うものだから、今では1デザインにつき1足しか購入しないのが常識となった。これは私の中では「ちょっと調子に乗っている」。神様に嫌われないか心配だ。(とはいえ、この境地に至るまではかなりビクビクしていて、大学卒業後も数年くらいは、だいたい最低2、3足くらいは同じ靴下を買ったりしていた)

 

そんなこんなで、靴下の自由を勝ち得た私は今、若干自分がフィクションの世界に生きているような心地がしている。だって、靴下が揃う世界があってその世界の住人になることができるとは、夢にも思っていなかったから。

男性の性欲についての友人Hの見解 ー人類基本勃起不全説ー

以前、友人Hが男の性欲についての面白い見解を語ってくれた。

私はその論理を聞くのがなかなか好きで、幾度か説明をしてもらったことがある。

(他の友人によれば、その論理は心理学者の岸田秀に影響を受けたものに違いないとのことだが、何れにしても主旨は次のようなものである。)

 

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まず、人間の男性というのは基本的にインポテンツである。

なぜならば人間の女性は発情期がわからないように進化したから、人間の男性はいつ発情したらいいのかがわからないのである。

根本的に動物は、メスの発情を感知してからのみ、即ち「自らが許容されている場合においてのみ」発情し、交尾を行う。

しかし発情期が感知できないように進化した人間は、このようなサイクルから逸脱してしまった。

人間の女性の尻は赤くならない。発情期特有の分かりやすい匂いを発することもない。

 

レイプが起こるのは、このためだ、と友人Hは言う。

人間が動物のような定期的な発情期を失って、年がら年中発情しているのは、むしろこのような事情によるのだ、と友人Hは言う。

 

一体どういうことか。

 

つまり発情期を失った人間は、繁殖のために「発情する文化」を人工的に作り上げているのだ。

例えば「肌を隠す」ことによって「肌を露呈した時」が発情の合図になる、といった具合に。

そして何よりも、AVやエロ本が存在するのは、我々人類が発情期を失っているためなのだ。

偽の発情期は常に生産され続けている。

そしてこの倒錯した性の形態こそが、社会の様々な問題を生み出しているのだ。

 

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もしかすると細部は若干Hの考えと異なっているかもしれないが、これはなかなか面白い考え方じゃないだろうか。

彼の考えに基づけば、

「男の性欲は強いから、常に処理されなければならない(よってAVやエロ本によって性欲処理をすることは男にとって不可欠である)」

という言説はそもそも「偽」なのである。

インポテンツであるがゆえに生み出された発情のためのカルチャーが存在することによって、「男の性欲が生産され続けているにすぎない」のである。

もっと言えば、すべての性犯罪は「男性の性欲が強いことに起因する(そのうちのコントロールが効かなくなった一部の男性が犯罪を犯してしまう)」のではなくて、「倒錯した人間の性欲の形態の問題」なのである。

 

私はこの論旨を理解するのに結構な時間を要した。

それは恐らく「男性の性欲が一般に強いこと」を常識とする考えが私の中にあったからだろう。

 

果たしてこのHの考えに対して、男性自身は一体どう考えるのだろうか。

そもそもこれは人類学者や心理学者などが討論するに値するアカデミックな視点であるから、教養のない凡人がすぐさま聞いて頷けるようなものじゃないかもしれない。

けれどもこれは非常に面白い考え方で、

「男性がいざ性行為に及ぼうとして緊張して勃たなくなる」

といったような一般的な事象を十分に説明しうる論理でもある。

この説に基づけば、

「女性に許容されているかが不確かである限り、男性は本来勃たない」

のが当然なのであり、勃起不全は病気ではない、ということになる。

だから勃起不全の男たちも、そのことで悩む必要などあまりないように感じられてくるかもしれないし、

また女性たちがこの見解を前提にすれば、女性たちは性行為の際、まずは男性を安心させることに配慮をするようになるかもしれない。

 

また男性の性欲たるものがいかなるものかを考えることは、一般的な生活の上ではあまり必要がないことのように思われるかもしれないが、社会問題を考えるときに不可欠になる。

例えば従軍慰安婦問題を考える際、あるいは世の中にはびこる強姦をいかにして減少させられるか、という問題を考える際、

「男性の性欲の強さを自明のものとして考えるかどうか」

は、実に根本的な問題である。

 

実際私は従軍慰安婦の問題を考えている時に、Hに意見を伺い、その際にHの中からこのような根本原理についての話が出てきたのだが、

他の人々が、男性の性欲の強さを自明のものとした上で論理を組み立てていくのに対して、Hだけが根底をひっくり返すような意見を私に与えてくれた。

 

現在であれば「そもそも"男性の性欲"を一括りにはできない」といったような、多様な性のあり方を主張する意見もあるであろうし、

あるいは人間の性欲の強さには栄養過多といったような医学的要因だって重なっているに違いないのだが、

とはいえこの一般常識に反したHの考え方が一考に値することだけは確かだろうと思う。

大人になると本当のことが言えなくなる

「大人には本音と建前がある」と思われているくらいなら、それはまだ救いようがある。

何が本音かが明らかであるからだ。

 

そうではなくて、大人になると本当のことがわからなくなり、そして言えなくなってくるのを感じる。

 

心の奥底で、本当のことのように思われていることが一体何なのかがわからないのだから、基本的には気にしていない。気にしようがない。

ただ時々、誰かの語気の強い語りがかつての自分に突き刺さる時、「ああ、自分には本音がなくなっているのだな」と気づく。

 

別に大人になるというのは悪いことじゃない。

私が問題にしているこのことの本質において、大人になるということは「一般的なるもの」に準ずるようになること、である。

ある物事の背後にそれ以外の可能性を、より多く感じられるようになること。

そしてそれは精神が中庸状態になることでもあり、「それもわかる、あれもわかる」(=物分りが良くなる)が故に、明確な批評精神を失いかける、ということでもあるが、

他方、対峙する物事の仲裁を行うことが出来るような知性が備わってくる。

 

でも、何かをきっかけに、ふとかつての自分の思いが一旦前に出てきてみると、

それを失ってしまった自分に気がついた私は、寂しい。

大海に落ちた一滴の水のような、拠り所のない気持ちだ。

人は色々な人の思いに共感するうちに、自分が誰だかがわからなくなる。

人と思いを共有することにはそれ自体に価値があるように思われるのに、

それ自体は成長であったはずなのに、

自分自身というものが消えて、何を見ても共感出来るようになった私は、

本当は何にも感動していないのではないか?・・・と疑われてくる。

 

あれも、これもと、様々なものを美しいと感じる心が、

よどみなく流れる川のようになってしまったことを、

「消費者根性丸出しではないか」と批判する自分がまだどこかに残っているだけ、

私は自分自身が幾分かまだマシな方だと思いたいが、

何かを批判することもなく、中庸的で、自分自身も悩みのない者になることが、果たして私の人生の目的だったのだろうかと思うと、そうではなかったはずだと言わざるを得ない。