情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

夫・韓国人とRADWIMPS『五月の蝿』について話す

私の配偶者は韓国人だ。夫が外国人だと、ただ夫といるだけで外国に行ってカルチャーショックを受けるようにびっくりすることがある。

いつだか私が夫にRADWIMPSの『五月の蝿』歌詞の話をした時のことだ。『五月の蝿』という曲の歌詞には衝撃的な歌詞がある。

 

通り魔に刺され 腸がこぼれ 血反吐を吐く君が 助けを求めたとして

ヘッドフォンで大好きな曲を聴きながらこぼれた腸でなわとびするんだ

僕は君を許さない もう許さない 許さないから

 

という歌詞だ。ある時、私は夫に対して「こういう歌詞があるんだって。こぼれた腸で縄跳びって。思いつかなくない?こんな発想」という話をした。

夫は音楽関係者だからRADWIMPSの事も知っている。以前日本のおすすめバンドとして私が紹介したのだ。当然私は彼らのそういった歌詞に驚くと思って話したのだが、彼はすぐさま、「それ、韓国に昔からあるよ。喧嘩の時に言うそういう有名なフレーズがあるよ」と言ってきて、「へ?」っと私はなんだか自分がすごいピュアな世界の住人になったような気分がして、一瞬にして世界観の枠組みの違いのようなものを感じた。

 

韓国人の夫と話をしてわかったところによると、どうやら日本には殆ど罵倒語がない。(外国の映画とかを見てなんとなくは知っていたけど)

悪口を言う時に普通どんな言葉を言うのか、という話になって、最もよく使われる悪口の中では馬鹿とかアホとかの基本があり、続いて私が思うには「死ね」とか「殺す」が最上級のレベルの一つで、 女性に対する陰口にビッチとかに相当する言葉の種類は幾らかあるが・・と説明をする。と、カマトトぶっているわけではなく、その他にこれといったものが私には思いつかなかった。

そもそもファックという意味を自分は高校生になってもわからず兄に聞いたことすらあるし(兄には「自分で調べろ」と言われた)、ファックに相当する悪口というものは日本語にあったとしてもまどろっこしい言い回しになったりして、耳になれるようなものではないのではないかと思う、などと話していくと、韓国人の夫は目を丸くするようにして、「平和だなあ、日本は〜」という反応を示した。

 

普通文化の話をする際には、それなりに日本の慣習を示せるのに対して、こと悪口については相手を全く感心させられず、話題提供者としてコンテンツ不足と言われてるような気がして、私は必死で思い出そうともした。

「いや、特に男性ものの漫画の中にはそれなりの悪口というものがあると思うけど、相手のキャラクターや状況に応じた個別的なものだったりして、そこまで聞きなれたようなフレーズで有名で悪どいものというのはないような…。・・・あとは男性が女性を罵るときには淫乱テディベアとかあったけど」

と、何だか言い訳みたいに話をかき集めても、全く相手の心に響いていないのがわかる。

要するに私の知っている日本の悪口ではどうやら韓国人を驚かすことは到底不可能なようなのだ。

 

彼によれば中国には悪口がわんさかあるらしく種類も豊富で、それは韓国のものと驚くべきほど類似しているのだという(彼は一年間中国に暮らしていたことがある)。悪口は大陸を伝っているのだろうか。

そもそも彼と中国人の友人との「自国悪口の検証」が男性同士のやりとりであるのに対して、日本人として話題に参加している私は女性で知識がそもそも豊富でなく、所詮ちょっとした青年漫画レベルの知識がうっすらとある、程度でしかないので、彼らの検証過程と自分と夫のやりとりを同等に扱っていいものかどうかはわからないが、インターネットで調べてみても日本語の罵倒語の少なさというのは有名らしく、やはり日本は外人たちが挙って呆れるほど悪口の種類に乏しいらしい。

 

そもそも日本語は何故悪口がこんなに豊富でないのか。と自分なりに考えてみると、まず思うのは、仮にアーティストの憎しみ表現でもなんでもなく、日常的な悪口として「腸でなわとび」なんて口にした場合、相手にダメージを与える言葉そのものの効果云々よりも、それを口にした方が周囲に人格を疑われるという形で自殺点的ダメージを食らいかねないという点だ。つまり悪口は自分の品格を下げる、ということに潜在的に注意が払われている。しかもロクデモナイ言葉は自分だけでなく親の顔に泥を塗る感覚もある。(だって親が教育してくれた結果がそれってことを周囲にお知らせしているようなものだし)

つまりそんなに汚い言葉にまみれている人は、その人自身がロクデモナイと感じている。これは言葉の衛生観念の問題かもしれないが、そういう理由で「汚い」言葉を、発することすら何となく憚られるのだ。

 

しかも日本では出来もしないことを言うことにそもそも価値がない。仮に「お前の母ちゃん犯すぞ」と言われたとして、実際にはしないことであろうことを言われても、何に傷ついていいのかよく分からない。やはりそのような悪口はそれを口にした人間の品性の低さしか表しておらず、「この人とは友達になるのはやめておこう」と思う程度だと思う。

それだったら「お前がこうということは親もそのレベルなんだろうな」と言われる方が傷つく人は多いだろう。だが(これは私が特殊なのかもしれないが)私は親の悪口には怒って当然というオーラを撒き散らしている人のこともよく分からない。というのも、親の悪口を言っている人が憎いかどうかは、親のことを知ってて言ってるのか、知らずに言っているかにもよるし、知らないのであれば何の関係もないので結局私に対する侮辱でしかないし、知って言ってる場合は親とその人の関係上の問題なわけで、特に親戚が私の親の悪口を言っている場合などは、そもそも私が生まれる以前からある人間関係上の鬱憤の蓄積の話をされることになるわけだから、どうにかうまくやってほしい、という気持ちにはなるが、「親を侮辱して!」という、あたかも親を自分だけの所有物であるかのように示される怒りはなかなか生まれてこないのだ。というかむしろ親も一人の人間なので、人に不快感を与えることもあるんだな、という理解が先立つ気がする。

 

話を戻すと。

インターネットの考察の中には、「日本人は悪口を直接言わずに陰口や皮肉を好むから」「オープンな国ほど悪口が多い(イタリアなども酷いらしい)」(共に

http://www.tomotrp.com/entry/schimpfwoerter)という、確かに確かに、と思える考察がある。確かに言われてみると、日本人はきっとそんな明るい(=意味のない)悪口を浴びせようという気がないのだ。明るさは馬鹿とかアホで十分。感覚的な言葉でダメージを与えるよりも、もっと具体的な、相手の人間性を否定するような言葉を言う方が、精神的にダメージを与えられるので有効だと考えている、ような気がする。しかも影でいう方がきっと圧倒的に多いのだ。

恐らく汚い言葉を使いうる国で使われている汚い言葉は、既に使い倒されて言葉に意味がなくなっているようなものばかりだろう。どんなに汚い言葉でも、ある言葉が言われ倒されて行けば耳慣れていくうちに実質的な価値を失っていくはずで、その「汚さ」というのは使用頻度に対して相対的なものであるはずなのだ。例えば「死ねよ」という言葉はそれを使わないようにしつけられた人間にはとんでもない言葉だし汚いが、お笑いでよく使うのを真似て使う人にとったら、大した意味はない。それに、大阪に至ってはアホは褒め言葉ですらある。そういうことだ。汚い言葉も使い方で色々と意味が変化するはずだ。

 

とも考えてみると日本はそういう明るい(=意味のない)悪口を、遊びの意味も含め使い倒すカルチャーが弱いということだろう。

「侍の時代に悪口を言われると刀で斬られたので言われなくなった」とかなんとか、そういうソースがないような説も色々なのがあったが、この辺りの真相は全くよくわからない。

 

一番気になるのはRADWIMPSの野田くんが、どこからその発想を持ってきたのか、その発想が決してオリジナルではないことを自覚して使っていたかどうか、だ。 

 

幸せな家族の会話

 

先日友人の実家にお邪魔した。

 

行ってすぐ夜ご飯を食べ始めて、30分以内には彼ら一族の会話に私も一緒になって爆笑していた。

 

確か一つは中国の旅行に行った時、誰々さんが、筆談でお店の人に何かを伝えようとして、漢字で文章を書いた後にレ点を打ったという話。

 

で、もう一つは、友達の妹の婚活話だった。

 

妹が手取り11万の彼氏のことを話すと、友達(兄)と私が心配して、結婚への心構えみたいなことを話すが、最初から話の切り口が月収だったせいか、どうしても心配しているこちらがお金で人を選ばせようとしているような響きになってしまっていた。

私と友人はどちらかというと文芸的な思考をするタイプだから、お金で人を選ばせたい考え方をしている人たちではないのだけど、妹はモデルの仕事をしていたりして、まあまあお金が要りそうな性格なこと、そして話を聞いていると、その彼氏にはお金もない、才能もない、しっかりとした自分の物の見方を持っているわけでもない、野心があるわけでもない、すごい好きでたまらないというわけでもない・・・という感じだったので、どうしても、

「何があるというわけでもない、そしてまだ結婚どうしようという踏ん切りがつかない状況なら、ある程度の収入のある人を探したら?」

という流れになりやすかったのだ。(というか私は前々から友人が、何もない男を選ぼうとする妹に失望しているのを聞いていたので、知らず知らずのうちに、友人が望む方に計らってしまっていたのもある)

 

そこへ友達の父が、しみじみと悟り口調で語ったのは、

 

「でもまあ長い人生で見たら、いいとこ悪いとこ、お金があろうとなかろうと、どんな人でも大体同じよ」

 

という、人間万事塞翁が馬的な、この上なく寛容な言葉だった。

そこで一旦、「収入ある人を探したら」、「そうでなくとも何か自分を持っている人を」と言っている私たちがまるで浅はかな人間かのように映ったあと、

「ところで彼のどんなところが好きなの?」と私が妹に聞くと、妹は「優しいところ」と答え、

「ヴィジュアルはどんな感じ?」と聞くと「ちょっと太ってる」と答えると、

さっきまでしみじみ悟り口調で寛容な姿勢を示していた父親が、

 

「え?太ってんの?収入も低い、儲けたいという野心もない、あれもない、これもない・・・で、しかも太ってんの?・・・いいとこ無しや〜〜〜〜ん」

 

と言って、家族で爆笑。

 

彼氏を笑い者にしているという風にも取られない危険な会話だが、友人の父も結婚した当時は月収12万くらいだったらしく(と言っても数十年前の12万だが)、「どんな人と結婚しても幸せ度数は大体同じ」という物の見方も持ってる父からすれば(この考えも嘘なわけじゃない)、その場の会話を楽しんでいるだけで、具体的にその彼氏をどうこう言っているわけでもないのだ。

だから妹も一緒に爆笑している。

 

要は婚活の会話としては全く生産性のない会話なのだけれど、32の娘に対してこれだけ生産性のない会話を楽しめる家族の心の余裕はすごい、というか、むしろ家族がそれだけワイワイ楽しめてしまい、しかも裕福な彼らは自分たちの家族だけでも幸せがすでに完結していて、本当に心から家を出ていきたいという気持ちがないのかも、という気がしたほど、幸せそうだった。

 

私の家族は生産性を求めて価値観をぶつけ合うスタイルなので(会話の目的は笑いというよりも、お互いの価値観を確認し合う意味合いが強い)、ここまで生産性を求めずに会話を楽しめる家族が私にはとても「幸せな家族像」に映り、そんな幸せな家族があるんだなと思いながら、帰宅した。

 

成人誌販売中止の偽善感が圧倒的に許せない。 

 

今日はここ数日話題になっているニュースを取り上げます。

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

 

二つのニュースは両方同じく、成人雑誌販売をやめるというニュース。

こんなに立て続けに、しかも唐突に、街角から成人雑誌販売を止める働きがあるなんて明らかに変で、どう見ても背景にはオリンピックに向けて、という対外的な理由が根底にあるものと思われる。

 

にも関わらず、記事には

「女性や子どもが安心して店舗を訪れるよう配慮する。」と、全くの偽善が書かれていることには、まずもって驚愕せずにはいられない。

 

もし日本の社会が「女性や子供」のことを、(この記事に書かれているような意味で)真に配慮する国ならば、2017年、既にコンビニに成人誌は売られていないと思う。

「街角に成人誌が溢れていることを今まで誰もおかしいと思ってなかった。そして今女性や子供の人権問題を配慮すべき時がきましたね。うんうん。めでたし。」

などと、まさか唐突にそのような時代がやってきたわけじゃない。

私たちは「意識が未開だった」わけじゃないのだ。

今までもおかしいと思ったり不快に思う人は多くいたけれど、それでも女性を含め大方の日本人が「社会に於いて性産業を大っぴらにすること」に対し暗黙の了解を示し、寛容な目で接してきたのであり、また人権やらの論理を盾にして今までの性のあり方を急速に否定し、抑圧・隠蔽をしないことを、「自然」と感じてきたのであり、「是」としてきたのである。

 

もちろん単純な問題として考えれば、あのような雑誌群、私はいらないと思う(私は用はないし、買い物中に変なものが目に飛び込んできて目障りだから)。でも今まで成人誌がそこにあったということは、そんな個人の趣向に限定された問題じゃないのだ。日本の性の道徳意識がそこに現れているのだ。あれらがあそこにあっても良いような意識を形成してきているのだ。だからこれは「成人雑誌はコンビニにいる、いらない」という狭い論点で個人の趣向を語るべき問題じゃなくて、今まで成人誌がそこにあったということ、そしてそれが無くなるということを、私たち日本人の公共意識と関わる問題として捉えなければならないと思う。

 

にも関わらず、まるで私たちには何の権利もないかのような、この唐突なニュース。

それがオリンピックのためなら、なぜ日本は下品な雑誌の背後で万人が共有している素晴らしい日本の公共意識を国外の人たちに対して「日本はこういうものです」とアピール出来ないのか?とか、そのアピールができないどころか、なぜ雑誌を販売中止にする理由に女性や子供を持ち出して盾にするのか?、なぜ盾にすることで、女性や子供を「配慮」しているのではなく、むしろ「利用」していることに気付けないのか?・・・いろいろな疑問が浮かび、そこにある表層的な偽善的説明が圧倒的に許せなくなってくる。

 

 

そもそも成人誌は「成人誌を見たい側」と「成人誌を見たくない側」双方を考慮すべき問題なのだから、唐突に「女性や子供の気持ちを配慮」すると言って置くのをやめるというのはおかしいのです。

女性をバカにするのもいい加減にしろよ、と言いたい。

きちんと、「唐突ではありますが、私たちの都合でそうするべき時が来ました」と述べるべき。

 

 

というわけで成人誌販売中止のニュースは日本の男尊女卑社会の本質が炙り出されているような気すらして残念でなりません。