情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

晒し上げポスターの是非について

 こんにちは。量子ちゃんです。

 

 ねえ、皆さん、これは恐ろしいですよ!

wired.jp

http://wired.jp/2015/05/20/creepy-ads-use-litterbugs-dna-shame-publicly/

 

 これは恐らく、目的としては

①「DNAから顔を復元出来る技術力」をポスター化して見せつけて、

②「ゴミ捨てたらわかるからね、ポイ捨てをなくそうよ」と宣伝するキャンペーン

 

だと思うのだが、「ポイ捨てした人の顔をポスターにする」と書いてあるのであまりにも恐ろしい。犯罪者でもこんな風に指名手配されるわけじゃないのに「ゴミのポイ捨て」っていう本当に小さい道徳のレベルから「悪いことした人」みたいに晒し上げちゃうの?という純粋な疑問。

 これ、作っている方も純粋なんだろうと思うのだが、「ゴミのポイ捨て=悪いことをしている人=顔わかるからね=ポスターに出来ちゃうからね(晒し上げちゃえるよ!)」という宣伝は、色んな意味で、倫理的な精神に欠けている気がする。

 

 このポスターを見たときの戦慄…これは多分この「晒し上げの発想」が「善悪の観念」と結びついているせいだと思うのだが、このポスターを見ただけでこちらはとりあえず一回、「これがゴミを捨てた人の顔か」と思わせられてしまうことで、必然的にもう、「晒し上げプロジェクト」に参加させられてしまっている気分になる。これって、心の毒だと思う。

 これはきっと「普段ポイ捨てする人」にとっては、「げ、まじかよ(やーめよ。orといったってどうせそこまでしないんだろ)」レベルなのかも知れないが、「普段ポイ捨てしない人」にとっては心の毒なのだ。世界ではゴミのポイ捨てとかなくすのに骨を折っているかも知れないので、相対的にゴミのポイ捨てが少なめな日本国の国民が口を挟めるようなことじゃないかも知れないが、こういう「脅し」でゴミを捨てなくなることが本当に良いことなのかというとそれは極めて怪しい。そもそも「ゴミをポイ捨てしてしまう人」は、 「捨てられたゴミがいずれ誰かが掃除しなければなくならないものなのだ」ということを想像出来ていないとか、「その社会への当事者意識のなさ」があるかも知れないにせよ、それは単に「子供」なだけで、別に「悪意のある悪人」なわけではないし、晒し上げられるべき対象では全くない。

 外国から帰ってきて見てみたりすると「日本人はゴミをポイ捨てしないのか?」と思われるほど道が綺麗だなあと思うが、仮にあっても「誰だよここにゴミを捨てたの?」という気持ちから犯人探しするような心をあまり持つこともなく、大体家の前に落ちているゴミとかは各自何ら疑問も持たずに拾ってしまうのだろう。それはもう半分「心の修行」じみているところもあるが、ごく日常的な作業の一貫で、「部屋にだって知らぬ間に塵が積もるのだから、玄関先にだって少々のゴミは流れてきてたまるものだろう」くらいの気持ちで行っていることだろう。(局所的にポイ捨てが多かったり溜まったりして困っている場所はある思うけど)

 それをこういう「科学技術×脅し」という作戦で「みんなの心へ攻撃与えてポイ捨てを一括排除!」という漫画みたいなやり方をすると、当事者意識からポイ捨てをやめるんだという市民意識は育たないし、結局「公共的なメッセージ」というよりは、効率が良いやり方を採って自分たちの活動の効果を上げたいこの香港のNGOHong Kong Cleanupの自己満足という感じがする。

 「いやいや、世界ではそんなレベルじゃない大量のゴミが毎日心ない人によって捨てられて、特に香港などはそれに悲鳴を上げたいほどなのだ!」ということなのかも知れないが、日本でこんな「晒し上げポスター」が出された場合、私だったら、

 

「気をつけていたってどうしたって落としてしまうこととかはあるわけで、風にさらわれて飛んでいってしまうこともあるわけで…」

 

みたいな言い訳気分になるし、「落とすこと」すら不安になって、いつもポケットの中身を確認する作業とかまで増えて、精神的な病気になりそうだ。ゴミを普段捨てない人にまで脅しをかけるなんて、ちっとも良い広告じゃない。公共広告機構の「ほっこり伝えていく感じ」を見習って欲しい。

 

 それからもう一つ思ったのが、もしかしてこの科学技術、いずれ「キリストの顔を復元する」とか、「仏陀の顔を復元する」とかいうことになっちゃわないのだろうか?・・・そう考えてみると、色んな人が不幸になるんじゃないかと恐ろしくなる。

 例えば「ここにはお釈迦様の○○があると信じられている寺」とかが世界に何十件あったりして、そこの顔が8:2で違った場合どっちを信じるのだろうか。

 

「お前のところは偽物だったのに、俺はいつも祈りに来てしまったじゃないか」

 

とか言って、少数派が非難を受けたり(少数の側が本物かも知れないが)村八分にされたり、最悪訴訟が起こったりするんじゃないだろうか。その非難の結果、今まで人に良いことをしていると信じていた住職が心の支えを失って自殺してしまったりしないだろうか。あるいは検証した結果一つ一つ全部違っていたらどうするのだろうか、とか。(「じゃあもう、これらを総合して「皆の仏陀の顔(統計的スタンダード)」ってことにしよう」みたいな発想になると良いんだけど。)…色々と心配になってくる。

 

 科学技術が発展するのは良いのだけれど、世の中知らない方が良いこと、わからないことをわからないままにしておく良さがあるので、どうかそうならないようにと祈るばかりである。 

 とは言え、日本ではとりあえずカッパの手あたりから、生きてたときの顔を復元してみて欲しい。ホッピリピン、飲んじゃった、ちょーっといい気持ちー(黄桜のCM)みたいなやつなのかどうかが見たい。いや、カッパの顔とか別に見なくても全然良いけど。