情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

既読スルーと不安について1 ー既読スルーをスルーできるか?ー

1.

 既読スルー(及び未読放置)の不安というのは、基本的には「相手がどう思っているのかわからない」ということに対しての不安であるが、本質的には事態が未決定のままあることへの不安であると思う。

 不安を不安のままに保つことは人間にとって難しい。可能性を可能性に留めておくのは難しい。ある程度心ある人ならば、最初は相手が返信出来ない状況にいるという可能性を「ああかな。こうかな」と考えて配慮して自分をコントロールしようとする。しかしあまりにも返信がこないと、今度は不安がイライラになり、それを解消するために、「そんな思いをさせてくる相手が悪い」とか、「私が何かいけないことを言ったのだ」ということにしてしまうことがある。自分が制御不可能になるのだ。既読スルーから派生するいじめや自己否定、関係のこじれの原因はここにあると思う。

 本来はただ「そういうこともある」と割り切れれば良いのだが、なかなか割り切れない。相手が好きな友達や恋人ならなおさら割り切れない。さんざん思いやって、自己否定をして、そのうち次第に自分の苦しむ思いを受け止めない冷酷さを感じてしまうからだ。待っている時間は長いのだ。この思いは相手への関心でもあるし自己愛でもある。相手に関心があるという意味では良いことだが、他方自分の心の弱さでもあるということも認めなければならない。

 そして人はこういう事情に対処出来るようにならなければならない。こういうことは人生を通していくらでもあるから、その度に相手が悪いことにして意地悪をしたり心の中で罵ったりしても自分の成長には繋がらない。人にはどうしても待たなければならないようなときがある。そして待つという時間のうちで、自分の中の孤独や弱さと向き合うことになる。

 一般的に言えば、人の心はこの意味で弱い。未来に対する不安から占いをつい見てしまったりするのはこういうことのためであるし、拠り所が欲しくなって何でも良いから解答を欲しがるのも、他人に本来言う必要もないことをペラペラと喋ってしまったりするのもこのためである。何かしらの形で不安の穴を埋めて日々を差し当たり生きていくという意味では、こうした不安はむしろごく当たり前のことでもあるが、既読スルーや未読放置はコミュニケーションの拒絶に感じられてしまうことからの不安であるから、相手への攻撃や自己否定に繋がったりするので注意しなければならない。

 不安の穴は人生にいたるところに転がっているのだが(転がっていない人もいるけど)、こういう不安の穴が巨大化して、そこに絶対的な形で答えを埋めることを欲するようになれば宗教である。信仰を欲することになる。孤独が深い人ほど宗教に惹かれるが、宗教はこういう問題への心構えを人に与えるものであるからその意味で人間の心にとって本質的であるし、その必要性が途絶えることは無いだろう。つまりここで私が何を言いたいかというと、既読スルー問題は大袈裟ではなく、人間の究極的な心の問題、不安が生成される仕組みと関係し、孤独の向き合い方の問題と関係するということである。

 そしてこういう問題をどう解決するのか、どう向き合えば良いのかと言うと、それは自分の中で「心構え」を作るしか無いと私は思う。最初からこの心構えが上手いこと出来ているタイプの人たちもいる一方で、当然そうじゃないタイプの人たちも沢山いる。ならばそうじゃないタイプの人たちはどうすれば良いのか。そのことを私はいつも考える。私は人生のステップとして差し当たり「既読スルーの恐怖」は越えているが、じゃあ既読スルーを恐れてしまう人の気持ちがわからないかというとそうではなくて、そういう不安は普遍的で、人生を通じてあるのだと感じる。かと言って、特に現代の日本では特定の宗教への依存が周囲に否定されがちなので、宗教という選択肢を抜かして自分の心の穴を埋めていくことになる(私はそもそも宗教に頼る気はないけど)わけで、じゃあ宗教的ではないやり方で、つまり何かを信ずるということではないやり方で、どういう心構えを持つことが可能かと言うと、

 

「今自分の中に生じている不安は、必ずしも相手と自分との関係上の問題ではない」

 

ということを知ることが最も良いのではないかと思うのだ。

 

2へ続く・・・