情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

既読スルーと不安について2 ー既読スルーをスルーできるか?ー

2.

 返事を待つときの不安が一つの問題になるのは、誰しもにとって心の弱い部分があるということ、それが本来的に「そういうもの(構造)である」ことを意味している。特に現代は合理的な思考をし過ぎてしまうから、「返事が来ない=無視=私を嫌いだから」とか、不安から答えを決めつけてしまいがちだし、インターネットを介してのコミュニケーションをするために「すぐに回答が貰えない」ことが多くなっているから不安と自己否定(及び他者否定)は増殖し続けるばかりだ。

 だが、知っておかなければならないのは、根本的にコミュニケーションは不完全なものであるから、あなたを好きでも嫌いでもなくとも、そういう誤解が幾らでも起こるということだ。だが誤解を生むコミュニケーションの不完全さを恐れるようになると、言葉を発することすら恐くなったりもするのが人間だ。それは自分の意味していることと違うことを受け取られる不安であったり、その誤解を解かなければならないというストレスであったりするが、そういうものは世の中に幾らでも生成され続けてしまうものなのだ。

 そしてこのことを抜本的に解消する一つの方法が「心構え」なのであるが、その心構えとは、人間にとって不安(や誤解)はそのようにして自然と生成されやすいものなのだと各人が受け入れること、またそれは相手や自分のせいで生まれている不安(や誤解)ではないのだということを知ることから、「それはそういうものなのだ」と既読スルーへの苛立ちを自らスルー出来るようになることである、と私は思っている。誤解の問題で言えば、誤解は当然起こることで、「誤解されたって良いじゃないか」と思えることが大事なのだ。

 けれどもこれは若さとか自分の中のエネルギー量とも関係していて、若いほどこういう心構えを作ることが難しく辛い。岡本太郎は「青春は暗い」と言っていたが、私は青春というものはこういう意味で大変暗いものなのだと思う(青春は暗いーは自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)に書いてあった言葉じゃないかと思う)。若い人のうちでも、求めているものが多くある人(例えば、親友が欲しいとか、本当に大切な相手を見つけることとか)とか、寂しがり屋の人、辛抱強くない人にとってそういう心構えは一朝一夕には出来ようもないので、一般的には、何か集中出来るものを持つこと(=待つ時間を違う時間として使う、返事に執着しない)などが、同じ意味でその解決策となる。

 だがもしも「本当に信じられる何かを欲しい」と思い、その一方で不安を抱え、しかし自分の不安をスルーすることも出来ない、更には集中出来る何かや娯楽等を見つけて解決するということすら嫌だ、と思われてしまう場合は、一体どうするのが良いだろうか。そういう場合は(私がそういうタイプなのだが)、「そういう不安と闘い続けるのもまた一興」と思うことが最も良いというか、多分そうするしかない。そういう「不安それ自体を味わう」とか「そういうものが人生」という考え方は、例えば保坂和志の「拠り所のなさ」へ向かう考えとか、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とかに通ずると思う。こっちの方向は多分結構根性がない限り辛い道になるようには思うが、そのドS且つドMなやり方は、「不安が生成される形式」を「知性を生成する形式」へと転じていく方法論でもあると思うので、個人的にはこれをお勧めしたいと思う。特に保坂和志氏の考えは、やんわりとそういう志向を受け入れさせてくれるので、お勧めである。

 

途方に暮れて、人生論

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