情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

虫を殺す

生まれてこのかた、虫を殺したことのない人っているのかな、とふと思う。多分、いない。

感覚的であればあるほど、虫を簡単に殺し、害虫呼ばわりをしても気にならず、特に虫の命について考えずに暮らせる。内省のない感覚。

そういう言い回しをしてみるとまるで批判しているように聞こえるが、私はそれを批判していない。私はそれはそれで格好良いことだと思っている。

 

私は幼少時から虫を殺してはいけない、という教育を受けてこなかった。なぜなら東京の団地には無数のゴキブリがいるのだ。ゴキブリは殺す対象ということで満場一致。間違いがなかった。

母は私にゴキブリを「命」と結びつけて語らなかったし、「ゴキブリは殺して良くて、森の中にいる虫や植物は愛でよ」というような命令が伝えられることがなかった。そこには矛盾がなかったので、思考が生まれることもなかった。

 

けれども大学に入って周りにハイソな人間が増えてから、環境が変わった。自称ブディストや金銭的に余裕のある暮らしをしていると思われる子息たちの間では、「虫をできる限り殺さない方向性」が良識として膾炙していることに気づくこととなった。

 

私は面食らった。虫を殺してはならないのか?と彼ら各個人に尋ねて回った。

心ある彼らは断言はしない。彼らの知恵は、自分に矛盾があることを予めよくわかっている。ただ、殺すことをよからぬと思う心を大切にしている模様だった。

 

私はしばし考えた。

虫を平気で殺す心と、無駄な殺生をしない心と、どちらが格好いいだろうかと。

私はどちらも格好いいと思った。

文面にしてみると、どうも後者の方が格好良いように聞こえてしまいがちだが、前者は本能と結びついていると思うから、やっぱりそれはそれで格好いいと思うのだ。

ここで前者の感覚を本能と言ってしまうと何だか曖昧な表現になる気がするので、例を出したい。

 

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以前、私は金沢文庫にある珍しい生き物のいるミニ動物園(ペットショップ)で、4つそれぞれのケージの中にいる4匹のリスザルを見たことがある。

私がそのうちの一匹に自分の指を握らせていた時のことだ。4つのケージの前を一匹のハエがサーーッと通った。

すると4匹の猿たちそれぞれが、ラインダンスのように、サッ、サッ、サッ、サッっと手を檻から出して、その虫を捕まえようとする仕草をするのを私は見た。

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それは直感的なものだ。

もちろんそこに善悪の観念はない。

命の重みを考える心もない。

いや、動物と人間は違う、人間は自然の回路から逸脱した思考を持っている、選択することの出来るだけの知性を持っている・・・そのように考えると、確かに無駄な殺生をすべきではないという結論が出る。

しかし本当は人間はいつまでも自然の中にいる。

自己を照らし内省する鏡を持つ人間は、ただそのような自然の中にいるのだと私は思っている。

私たちは内省のための鏡を持っているが、常にそれを見ているわけじゃない。

だから命は重くもあり、軽くもあらざるを得ない。

私たちはいつも命の重みばかりを語られる傾向にあるが、その実、命の儚さをあまりにもよく知っており、そこに何の罪もないことも十分に心得ている。

無駄な殺生はしない・・・そのことが美徳として語られうること。

そのようなことは全て、矛盾に耐え難き魂の、エクスキューズに過ぎないのだ。

 

と、頭の中ではそのように世界を観じながらも、大学以降、私は虫に出くわすたびに殺すことを躊躇するようになった。外出時はそのような問いはないが、それでもなるべく踏まないようにする。家で出くわすと、蚊とゴキブリ以外は捕まえて部屋の外に出すようになった。殺さないことも出来るにも関わらず、殺してよいものかどうかがわからないのだ。

だが蚊ならどうする。ゴキブリならどうする。蚊を叩くときは躊躇とともに遠慮気味にはたくので、大抵つかまらなくなってしまったが、ゴキブリはお湯をかけて殺してきた。何れにしても、それで良いかどうか、一つ一つ思考に軽く触れながら暮らす。そういう暮らしに慣れてきた。

 

ところでつい最近、結婚して初めて配偶者のお墓まいりに行き、古いお墓を埋め尽くそうと侵食する夏の植物たちを刈っている人の姿を見て、目がさめるような矛盾を感じた。

一方では死者の命を尊びながら、一方では(同胞ではないにしろ)生者の魂をいとも容易くハサミと鎌で傷つけている瞬間・・・私はそのくっきりとした境界線を見た。

 

私たちはただ何かを保護したり、ただ他なるものに何かを与え続けたりすることは決して出来ないがゆえに、そこに自己の利己的な心を見出さざるを得ない。自己の利己心への自覚は他人への猜疑心にもなる。意識するかしないかは別にしても、全ては与えられるか奪われるかという力の関係を持っていて、その関係の拮抗をふとした瞬間に自覚してしまうのが人間だ。

私たちの自然とは、それがそういうものと知りながら付き合っていかなければならない自然だ。それは矛盾に満ちている。そのような人間特有の矛盾に満ちている視点を、私は現実社会とは呼ばず、またそれを自然と区分けして考えるのでもなく、あえて自然と呼ぶ。

私たちはそういう矛盾から生まれる諸々の感情に開き直るでもなく、否定するのでもなく、白黒つけずにただ静かに受け入れることが良い。

気づけばふと虫を殺していることもあるだろう。守っていることもあるだろう。どうすべきかと迷って苦しんでいる時もあれば、殺したことに気づきもせず笑っていることもあるだろう。

でもそれが私たちにとっての理想的な自然の形態なのだ、と最近は思う。