情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

成人誌販売中止の偽善感が圧倒的に許せない。 

 

今日はここ数日話題になっているニュースを取り上げます。

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

 

二つのニュースは両方同じく、成人雑誌販売をやめるというニュース。

こんなに立て続けに、しかも唐突に、街角から成人雑誌販売を止める働きがあるなんて明らかに変で、どう見ても背景にはオリンピックに向けて、という対外的な理由が根底にあるものと思われる。

 

にも関わらず、記事には

「女性や子どもが安心して店舗を訪れるよう配慮する。」と、全くの偽善が書かれていることには、まずもって驚愕せずにはいられない。

 

もし日本の社会が「女性や子供」のことを、(この記事に書かれているような意味で)真に配慮する国ならば、2017年、既にコンビニに成人誌は売られていないと思う。

「街角に成人誌が溢れていることを今まで誰もおかしいと思ってなかった。そして今女性や子供の人権問題を配慮すべき時がきましたね。うんうん。めでたし。」

などと、まさか唐突にそのような時代がやってきたわけじゃない。

私たちは「意識が未開だった」わけじゃないのだ。

今までもおかしいと思ったり不快に思う人は多くいたけれど、それでも女性を含め大方の日本人が「社会に於いて性産業を大っぴらにすること」に対し暗黙の了解を示し、寛容な目で接してきたのであり、また人権やらの論理を盾にして今までの性のあり方を急速に否定し、抑圧・隠蔽をしないことを、「自然」と感じてきたのであり、「是」としてきたのである。

 

もちろん単純な問題として考えれば、あのような雑誌群、私はいらないと思う(私は用はないし、買い物中に変なものが目に飛び込んできて目障りだから)。でも今まで成人誌がそこにあったということは、そんな個人の趣向に限定された問題じゃないのだ。日本の性の道徳意識がそこに現れているのだ。あれらがあそこにあっても良いような意識を形成してきているのだ。だからこれは「成人雑誌はコンビニにいる、いらない」という狭い論点で個人の趣向を語るべき問題じゃなくて、今まで成人誌がそこにあったということ、そしてそれが無くなるということを、私たち日本人の公共意識と関わる問題として捉えなければならないと思う。

 

にも関わらず、まるで私たちには何の権利もないかのような、この唐突なニュース。

それがオリンピックのためなら、なぜ日本は下品な雑誌の背後で万人が共有している素晴らしい日本の公共意識を国外の人たちに対して「日本はこういうものです」とアピール出来ないのか?とか、そのアピールができないどころか、なぜ雑誌を販売中止にする理由に女性や子供を持ち出して盾にするのか?、なぜ盾にすることで、女性や子供を「配慮」しているのではなく、むしろ「利用」していることに気付けないのか?・・・いろいろな疑問が浮かび、そこにある表層的な偽善的説明が圧倒的に許せなくなってくる。

 

 

そもそも成人誌は「成人誌を見たい側」と「成人誌を見たくない側」双方を考慮すべき問題なのだから、唐突に「女性や子供の気持ちを配慮」すると言って置くのをやめるというのはおかしいのです。

女性をバカにするのもいい加減にしろよ、と言いたい。

きちんと、「唐突ではありますが、私たちの都合でそうするべき時が来ました」と述べるべき。

 

 

というわけで成人誌販売中止のニュースは日本の男尊女卑社会の本質が炙り出されているような気すらして残念でなりません。