情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

プレゼント ービリビリに破いたパンツを贈るようになった経緯ー

 中学生の頃から、私はプレゼントや手紙に趣向を凝らすのが好きだった。バレンタインの時にはお弁当箱に形の違う様々なチョコレートを詰め込み、箸を入れハンカチで包んだり、カセットテープには自分で編集したロックやJ−ポップの歌を曲順まで考えて丁寧に入れ(注意:90年代後半の頃です)、それに付属させる手紙なんかも、パズルの裏に手紙を書いてバラして送ったり、手紙を一行一行切り離して星型に折りたたみ、番号をつけて小瓶に入れて送ったりした。

 それらは大抵、遠距離恋愛をしていた相手に向けたもので、私は彼に年中手紙を書いていたものだから、普通に手紙を書くだけでは飽き飽きしてしまうということもあったし、手紙やプレゼントをする場所が、相手に自分を表現する場になっていたのか、今思えば「私のプレゼント歴」において、私はとんでもないものをあげたり貰ったりしていたような気もする。

 私が貰った物の中で、今思うと異様なものといえば、ゴムに括られて小さな封筒に入れられた10cm程度の茶色い髪の毛の束だ。航空便で私の元に届けられたその毛束を私が嬉しそうに友達に見せると、友達は「何それ、気持ち悪い」と言ったのを覚えている。遠距離をしていた彼がなぜそんなものを送りつけてきたかというと、私が彼の髪型を気に入っていたのにも関わらず、入学した高校の校則でスポーツ刈りにしなければならなくなり、自身もそれを惜しんでいたからだ。「髪の毛が送りつけられる」とだけ考えると気持ち悪いことだが、彼が侍や力士であったら、特別な時に切った髪の毛をプレゼントしてくる人として誰にも気持ち悪がられなかったであろうし、私は「自分にとっての意味」というものに応じて素直に行動をする彼のそういうところを今でも魅力的だと思う。それに、国境を隔てて手紙のやり取りをしていた私たちは手をつなぐこともなかったから、送られてきた髪の毛は相手の身体性を感じられる大事な断片でもあった。(後に実際手をつないだら、髪の毛を貰う時より「気持ち悪い」と感じたのだが。)

 ただし「髪の毛を貰う喜び」を若い時期に体験するか否かで、後の人生というものは変わってしまうものかもしれない。私はその後付き合った相手へのプレゼントに自分の「親知らず」を忍ばせたり、ビリビリに破ったパンツを忍ばせたりする愉快犯的な女になった。今だから言えることだとは言え、こんなことを親が知ったら一体どう思うだろう。

 ビリビリに破ったパンツを入れた経緯はこうだ。大学4年生の時に、医者家系の彼が再度医学部を受験し直すために、忙しくて会えない日が続いた。というか私たちは会わないことを取り決めて、合鍵を貰い、彼がいない時を見計らって掃除をしにいったりするようなもどかしいその時期に、クリスマスシーズンがやってきた。私は彼に何かプレゼントを、と思い、ふと思いつきでワードの文書を作成した。それは確か10個くらいのクイズが載っている紙で、「クイズの正解者の中から抽選でプレゼントが当たる」という趣旨だった。私はその問題用紙、切手を貼った返信用封筒を入れた封筒を、彼の家のポストに入れておいた。数日後クイズの答案が私の家に舞い戻ってきたやいなや、赤いペンで激しい丸付けをする。そして二つ目の文書を作成し、丸付けの済んだ答案とコインロッカーの鍵と共に彼の家のポストに入れる。これが確かクリスマスイブ当日になるように計算してあって、当日彼の家のポストに手紙を入れに行った時には、ケンタッキーだかモスバーガーのおいしいチキンもポストに入れておいた。のちに冷え切ってしまうであろうことも構わずに。

 そして彼が封筒から取り出すであろうはずの文書には堅苦しい文章で次のようなことが書いてある。厳正かつ公平な抽選の結果、プレゼントがあなたの元に届いたのだ、と。社長共々パンツをビリビリに破って喜んでおります、と。そしてコインロッカーの中に用意した大きい紙袋に入ったプレゼントには洋服やお菓子など、本当のプレゼントも当然用意してあるのだが、その中に社長が破いたビリビリのパンツが入れてある、という仕様だ。しかもそれは実際に私が使い古した、不要のパンツなのだが、今思えばよくもまあそんなものを入れたな、という気がしなくもない。ただ私は恥のない人間ではなかったし(むしろ恥は人三倍強い)、とにかく驚かせたいという一心だったのだと思う。だから恥を忍んであえて自分の履いたパンツを入れるしかないと考えたのだろうし(驚きのためには実際に相手に履いているのを見せたことがあるものでないとならない)、自分のパンツでビリビリにしてもいいのは使い古したパンツだと変なところでエコな観点が働いたのだろう。

 私がそういうプレゼントをする女性になったのも、元はと言えば遠距離恋愛の相手とのやり取りの中で、プレゼントがそういう表現の場になっていたということ、相手もそういう表現を喜ぶ人であったこと、そして彼から髪の毛が届いたときに私が「嬉しい」と思ってしまったことからのように思う。常識とは無関係に、二人の間だけの意味に基づいて、何かをプレゼントし合うこと、そしてその中に相手の身体性を匂わす何かがあったという経験が、私をそんな女性に仕立て上げたのだと思う。