お葬式と言論弾圧 ー内田也哉子の謝辞を読んでー
お葬式というのは最も偽りを感じる場なのかもしれない。
嘘偽りない人を発見してドキッとするのは、お葬式だからだ。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/04/03/kiji/20190403s00041000248000c.html
こういう言葉をお葬式で言い合える家族関係であって良いのなら、家族というものも悪くない、と思わせてくれる秀逸な謝辞だ。
私は冠婚葬祭が嫌いだ。冠婚葬祭はソフトな言論弾圧の場だからだ。
日時を合わせてそれ相応に着飾ったり笑ったり泣いたり・・・
人類学的に言えばそれは関係性の再構築だとか、それなりの解釈は出来るだろうが、正直猿が関係の再構築のために会合を開くとは考え難いし、猿とか動物がしないことというのは大体不純なのだ。
もし霊界の関係でお葬式が必要だと言うのであれば仕方がないような気もするのだが、一度も納得のいく説明を受けたことがないし、今のところ自分で納得のいく説明をつけられない。
人の死を迎える時には、受け手は最も単純で、最も純粋であるべきだ。
だからわざわざ嘘を並べて悲しんでいるふりをしなくていいし、行きたくなければ行かなくて良い。
誰かに会うことで嘘が始まる。
そこに言葉を添える場合、大抵は腹の底から語られる言葉ではない。
だから私は本当に大事な人が亡くなって喪に服す時は、出来れば誰とも会わないでいたい。
そしてわざわざ参列したならば、嘘のない自分で参列する方が良いと思うけれど、
それはあまりにも難しい。
あまりにも難しいから、それが出来ている人を見ると心が射抜かれる思いがする。
内田也哉子以外で私が葬式スタンスで心を打たれた二人。
https://twinavi.jp/topics/tidbits/56aededf-7dc4-49a3-9652-28155546ec81
明和電機社長
https://www.excite.co.jp/news/article/Getnews_2005000/
どうかお葬式が、自分を偽る場でなくなりますように。