情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

共通言語と生息地の壁 

 外人の友達が日本に来たとき、

 

「どうして日本人は、大体似たり寄ったりの人間でグループを構成していることが多いのか」

 

みたいなことを聞かれたことがある。確かに私が接客業をしていたときも、「ギャル男と清楚」みたいな異色のカップルは大体外人だとすぐわかってしまうのだ。それくらい異色のカップルというものは少ない。

 

「あのね、あの人ね!ヤンキーなんだけどすっごく面白いの!」

 

と目を輝かせていう清楚な女性というのもまずいないし、ギャルはギャルの、オタクはオタクの、芸術系の人は芸術系のファッションをして、同じような興味がある人たちと一緒にいる。オタクとギャル男が楽しそうに肩を並べているような光景も見かけない。

 多分これは「日本人が共通言語を好む」せいだと思うのだが、ファッションという共通言語を通じて、何となく精神の生息地を見分けているのかも知れない。大体服装やオーラで、その人の中に自分と共通の言語があるかないかがほぼ瞬時に見分けられてしまうのだ。

 この傾向は多分、前々から暗に了解されていることで、きっと何度も言われていることを私が最近忘れちゃっていただけなのだと思うが、でもやっぱり思い返すと変だなあと思う。それを覆そうみたいな気概のある人はあまりいないし、これじゃあモテたいと思っているオタクがモテる日は来ないし、モテたい人はまず服装のコードから変えろということになってきてしまう。要するに他者への迎合が必然的に強要されている社会、みたいな感じなのだ。

 大学生くらいのときは確かこういう垣根みたいな傾向がすごく嫌だったのだけど・・・自分も何となく「周りに普通の人に思われておこうっと」みたいなことになっていく過程で、段々と周りに馴染む格好と自分の生息地が決まってきて、いつの間にか同じムードを持った人しか周りにいなくなってきてしまい、そういう循環の中から抜け出さなくなってきてしまっている。迎合したら最後、基本はもうその生息地で、ってなっちゃう感じは実に面白くない。

 でも一応危機感みたいなものは友達と共有していて、確かに3年前くらいに友人がしている格好に、

 

「何その、とりあえずユナイテッドアローズ着とけば文句無いでしょ感」

 

と言ったときがあるのだが、友人も「そうそう、これ着とけばとりあえず文句無いでしょ?」と言ってきて、お互い、日本てそういうところつまんないよね、と思いつつ、フレキシブルであるためにそういうことをする悪循環を意識的にキープしている。・・・あるいはおしゃれとは無縁ないわゆる2ちゃんねるやってるオタク数人に自分から色々と話しかけたこともあるけど、何か結局迷惑そうなというかよそよそしい返答しか返ってこなかった気がするから、多分あっちも結局「生息地の違う女と言葉を交わすこと」を拒否しているんだろうと思ってしまって、どんどんそうなる。

 この生息地で人を決めちゃう文化は是非ともやめたい。昔は異なった生息地の人々が肩を並べる漫画とか映画とか色々文化があった気がするし、ビーバップの中山美穂とか「今日から俺は!」とかも理子は清楚系だった気がするけど、今は全然そういう感じがせず、恐らくヤンキーと一緒にいる女性は美人だとしても髪が金色だったり、同じくらいの経済事情の人たちで固まっていそうで、結局同じファッションをしていそうだが、これが格差社会のせいなのか、それとも昔のあれが単に男性の理想だったのか、、、一体誰に聞けばわかるのだろう。(もやもや)

 

 この問題は、ネット上の「殴らぬオタクより殴るイケメン問題」という議論から書いてみようと思いついたのだが(大分古い記事だけど…)、そもそもモテたいオタクの人たちのモテたい欲求にはこういう「生息地の壁」があるので(別にモテたくない人は何もしなくて良い)、とりあえずは本気でモテたいならファッションの迎合から始める以外にはなさそうに思われる。イケメンかどうかとか、殴るか殴らないかとかは、そのあとの問題である。

 

「でも、同じ服装を着用した「殴るイケメン」と「殴らないオタク」だったら、結局オタクは選ばれないじゃないか!」

 

と思うかも知れないが、私に言わせると「野球をやっていた」とか「DJやってる」とか、そういうイケメン共通言語みたいなのの中枢にいるのが「イケメン指数の高いオーラを放つ人」なので(つまり本当に顔面の整い方が見られているわけじゃないので)、結局そういうイケメン共通言語をちょっとずつ上げてくと、結果的にイケメンと言われる(たとえ言われなかったとしても女には困らない)日がそのうちくるんじゃないかと思う。(世の中で言われているイケメンは私にはそういう感じに見えている)

 でも本当はそんなことをしなくても、色々なジャンルの人同士が、共通言語の壁を越えて関わり合える状況が訪れれば良いのにな・・・と思う。

 

 

晒し上げポスターの是非について

 こんにちは。量子ちゃんです。

 

 ねえ、皆さん、これは恐ろしいですよ!

wired.jp

http://wired.jp/2015/05/20/creepy-ads-use-litterbugs-dna-shame-publicly/

 

 これは恐らく、目的としては

①「DNAから顔を復元出来る技術力」をポスター化して見せつけて、

②「ゴミ捨てたらわかるからね、ポイ捨てをなくそうよ」と宣伝するキャンペーン

 

だと思うのだが、「ポイ捨てした人の顔をポスターにする」と書いてあるのであまりにも恐ろしい。犯罪者でもこんな風に指名手配されるわけじゃないのに「ゴミのポイ捨て」っていう本当に小さい道徳のレベルから「悪いことした人」みたいに晒し上げちゃうの?という純粋な疑問。

 これ、作っている方も純粋なんだろうと思うのだが、「ゴミのポイ捨て=悪いことをしている人=顔わかるからね=ポスターに出来ちゃうからね(晒し上げちゃえるよ!)」という宣伝は、色んな意味で、倫理的な精神に欠けている気がする。

 

 このポスターを見たときの戦慄…これは多分この「晒し上げの発想」が「善悪の観念」と結びついているせいだと思うのだが、このポスターを見ただけでこちらはとりあえず一回、「これがゴミを捨てた人の顔か」と思わせられてしまうことで、必然的にもう、「晒し上げプロジェクト」に参加させられてしまっている気分になる。これって、心の毒だと思う。

 これはきっと「普段ポイ捨てする人」にとっては、「げ、まじかよ(やーめよ。orといったってどうせそこまでしないんだろ)」レベルなのかも知れないが、「普段ポイ捨てしない人」にとっては心の毒なのだ。世界ではゴミのポイ捨てとかなくすのに骨を折っているかも知れないので、相対的にゴミのポイ捨てが少なめな日本国の国民が口を挟めるようなことじゃないかも知れないが、こういう「脅し」でゴミを捨てなくなることが本当に良いことなのかというとそれは極めて怪しい。そもそも「ゴミをポイ捨てしてしまう人」は、 「捨てられたゴミがいずれ誰かが掃除しなければなくならないものなのだ」ということを想像出来ていないとか、「その社会への当事者意識のなさ」があるかも知れないにせよ、それは単に「子供」なだけで、別に「悪意のある悪人」なわけではないし、晒し上げられるべき対象では全くない。

 外国から帰ってきて見てみたりすると「日本人はゴミをポイ捨てしないのか?」と思われるほど道が綺麗だなあと思うが、仮にあっても「誰だよここにゴミを捨てたの?」という気持ちから犯人探しするような心をあまり持つこともなく、大体家の前に落ちているゴミとかは各自何ら疑問も持たずに拾ってしまうのだろう。それはもう半分「心の修行」じみているところもあるが、ごく日常的な作業の一貫で、「部屋にだって知らぬ間に塵が積もるのだから、玄関先にだって少々のゴミは流れてきてたまるものだろう」くらいの気持ちで行っていることだろう。(局所的にポイ捨てが多かったり溜まったりして困っている場所はある思うけど)

 それをこういう「科学技術×脅し」という作戦で「みんなの心へ攻撃与えてポイ捨てを一括排除!」という漫画みたいなやり方をすると、当事者意識からポイ捨てをやめるんだという市民意識は育たないし、結局「公共的なメッセージ」というよりは、効率が良いやり方を採って自分たちの活動の効果を上げたいこの香港のNGOHong Kong Cleanupの自己満足という感じがする。

 「いやいや、世界ではそんなレベルじゃない大量のゴミが毎日心ない人によって捨てられて、特に香港などはそれに悲鳴を上げたいほどなのだ!」ということなのかも知れないが、日本でこんな「晒し上げポスター」が出された場合、私だったら、

 

「気をつけていたってどうしたって落としてしまうこととかはあるわけで、風にさらわれて飛んでいってしまうこともあるわけで…」

 

みたいな言い訳気分になるし、「落とすこと」すら不安になって、いつもポケットの中身を確認する作業とかまで増えて、精神的な病気になりそうだ。ゴミを普段捨てない人にまで脅しをかけるなんて、ちっとも良い広告じゃない。公共広告機構の「ほっこり伝えていく感じ」を見習って欲しい。

 

 それからもう一つ思ったのが、もしかしてこの科学技術、いずれ「キリストの顔を復元する」とか、「仏陀の顔を復元する」とかいうことになっちゃわないのだろうか?・・・そう考えてみると、色んな人が不幸になるんじゃないかと恐ろしくなる。

 例えば「ここにはお釈迦様の○○があると信じられている寺」とかが世界に何十件あったりして、そこの顔が8:2で違った場合どっちを信じるのだろうか。

 

「お前のところは偽物だったのに、俺はいつも祈りに来てしまったじゃないか」

 

とか言って、少数派が非難を受けたり(少数の側が本物かも知れないが)村八分にされたり、最悪訴訟が起こったりするんじゃないだろうか。その非難の結果、今まで人に良いことをしていると信じていた住職が心の支えを失って自殺してしまったりしないだろうか。あるいは検証した結果一つ一つ全部違っていたらどうするのだろうか、とか。(「じゃあもう、これらを総合して「皆の仏陀の顔(統計的スタンダード)」ってことにしよう」みたいな発想になると良いんだけど。)…色々と心配になってくる。

 

 科学技術が発展するのは良いのだけれど、世の中知らない方が良いこと、わからないことをわからないままにしておく良さがあるので、どうかそうならないようにと祈るばかりである。 

 とは言え、日本ではとりあえずカッパの手あたりから、生きてたときの顔を復元してみて欲しい。ホッピリピン、飲んじゃった、ちょーっといい気持ちー(黄桜のCM)みたいなやつなのかどうかが見たい。いや、カッパの顔とか別に見なくても全然良いけど。

世界遺産って何だろう。

 どこどこが世界遺産になります、という話しをニュースなどでよく聞くけれども、世界遺産って何だよと思う人も少なくないはず。富士山は富士山であるだけでも美しいのに、どうして世界のよくわからん機構に箔付けされなければならないのだ、と疑問になる(富士山は結構古い話しだけど)。その一方で、当然世界遺産認定に伴う経済効果というものがあるので、地方都市が喜ぶ理由もよくわかる。だが、何だか腑に落ちないものがある。

 世界遺産だけではなく、ミシュランとか、世界の住みやすい街ランキングとか、宗教対応安全のシール(コーシャマーク)を貼る団体とかのニュースを見ると、欧米人は本当にそういう格付けとかレッテルを貼ることを仕事にするのが上手だなあと思うが、こんなの真に受けすぎない方が良い、というかそういうのがそんなに好きなら、日本人も自分たちで作れば良いのにと思われてくる。

 そもそも世界遺産、世界の住みやすい街ランキング、世界大学ランキングなどというのは前提として「評価のための基準」が必要で、その基準は誰かの作った基準であるから、「そもそもその基準ってどうなの」と問うこと自体の価値は永遠に消滅しない。なぜ私たちが勝手に格付け基準が決まっているその世界観に合わせていかなきゃいけないのか?その理由がどこにもないのに、「格付け→話題→経済効果→格付け」みたいな循環にはめさせられている気がして嫌になる。その対象の中に富士山が入ってしまったりするのは、村一番べっぴんの娘が「美少女図鑑」に入るとか、有名プロダクションに所属してメディアでその魅力が拡散される、みたいなことなんだろうけど、何だかとても光栄なようでとても残念な感じもある。

 有形の世界遺産に限って言うと、私がよく思うのは、

「そんなに遺産を増やしていって、1万年後とかどうするつもり?」

ということだが、歴史的建造物として箔付けされた建造物に人が執着を持ち始めると、「世界遺産巡り」とかを趣味にし出す人が出てくるうちはまだいいが、その後はもう執着として定着し、いずれ「絶対に取り壊させない」という怨念のようなものになってゆくわけで、 そういう感情移入で街が埋め尽くされていくとすれば、後々の子孫にとって迷惑なのではないだろうかと思われてくる。

 しかも歴史哲学的に考えていくと歴史の基準は曖昧になってくるものであるから、いつか「結局全部歴史的遺産だった。」ということになったりしないのだろうかということも疑問になる。そもそも歴史的建造物が建てられる前にも、その土地には歴史があるわけで、その主を追い出して建てられた建物とかが、歴史としての認定を受けるってどうなのということとか、究極的には「今ここに落ちている石ころも宇宙」的な観点からいくと、世界遺産て何さ、という気持ちはどうにもこうにも拭えない。

 所詮地球の土地は有限なので、その範囲がどんどん被世界遺産認定物によって狭められていくという感覚を持つと、そう喜んでいられないし、「断捨離も必要じゃないの?」と予め思ってしまう。しかし、それに「いやそれはそれで良いんだ。私たちはそのうち他の星に出て行くのだから」という感覚があるならわかるのだが、その頃にはもう日本は「日本列島という観光地」ということになるのだろうかとか、それって本当に文化を守ったことになるのだろうかとか思う。そういうことまでひっくるめて考えると、歴史というのは本当に勝手に力関係が出来ていって、後から文句を言ってももう取り返しがつかない、みたいなことの連続だなあと思う。