情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

SNS、他人と繋がる互酬疲れ

 

S N Sの恐ろしさは、「キラキラした世界への疲れ」という言説がある。

 

私が感じるS N Sの疲れはどちらかというと「義理(互酬)疲れ」である。

 

 

相手が「いいね」を押してくれる人だから私も「いいね」を押す、というのは「いいね」と思ってなくてもその行為が発生するわけなので疲れる。

自分が「いいね」(またはフォロー)をしなければ相手も「いいね」(またはフォロー)しない、というのはそもそも自分自身には義理以外で需要が発生しづらいという意味で虚しい。

あるいは知らない人がフォローしてくれたのでフォローバックすると、その手法を使ってフォロワーを増やした人がいつの間にかこちらへのフォローを切っていたりする。

互酬どころか知らぬ間に利用されていることも多々あるというわけである。

 

S N Sというのはよっぽどのインフルエンサーでない限り(商業的に自分を加工しない限り)、根底には義理がつきものだが、

自分を商業的に加工し、売り物となった自分をS N Sで売り捌くのは、それが気持ちいいと感じる人間にしかできないし、

そもそも自分を切り売りするということは何かしらの営利のために自分自身に関し、他人に嘘をつくことを孕むことであり、

それに加え、何かをギブしてテイクしようという互酬の関係性から逃れられないという意味では特に憧れるところでもない。

インフルエンサーに自分を一対多の関係性において認められる快楽性があるとしても、その快楽性へ向けて自分の行動が縛られていくという不自由だってあるだろうし、結局のところそれほど都合の良いものではなさそうである。

 

つまるところ他人と繋がるということは根本的に(オンラインでもオフラインでも)不自由を原則としている。

そんなこの世の根本原則に関しては誰も何も思わないのかもしれないが、

私は結婚してから何が辛いかといえば「互酬を大原則とする経済圏、その現実感覚にガッチリと組み込まれていること」である。

そんな私からすると、なぜ休み時間に仮想空間でこれを行わなければならないのかがわからないし、

仮想空間はもっと人間にとって都合の良いものであっていいはずではないかと感じられてくる。

 

じゃあ互酬性のない都合の良い仮想空間は虚しくないのだろうか、疲れないのだろうかというと、そういうことでもない。

それはどんなに快楽があり得たとしても金銭を支払って都合の良いサービスを得るキャバクラやホストのようなものになってしまうだろう。

独我論に否定的な私にとっては何一つ面白くもないものになるに違いない。

 

それはもしかすれば結婚によって「システマティック互酬圏」に組み込まれた私から見えているSNS像、世界像に過ぎないのかもしれない。

とも思う一方で、

やはりこの世を俯瞰する視点に立てば、人はなぜこうも互酬に縛られねばならないのか到底わからないもののはずだ、とも思う。

一つの結論としては、私にとって(いわゆる他者と繋がることを第一目的とする)S N Sは、この世の現実感覚をわざわざ仮想空間で再現する意味での煩わしさを持つ謎の空間であり、他人と繋がることでなく自分から自分に有用な情報を主体的に取得しに行くという姿勢でもない限りは、義理という形式だけが残り、疲れが勝らざるを得ないということ。

 

ところで樹木希林氏は「あげることももらうことも否定した」と娘の内田也哉子氏が言っていたが、互酬をそのように断ち切ることはどのような関係性をもたらすのか気になっている。

その徹底した手法で、他者と嘘のない関係性に近づくことができるのだろうか。