自分が人に与えている影響について ー結婚観ー
自分は自己顕示欲が強い方かとも思っていたけれど、結婚して子供を産み、日々の忙しさに追われていると、びっくりするくらい自己表現などというものには無頓着になっている。
いつからかわからないけれど、ここ数年で、自分の考え方や人間性に、何一つ人に理解されない特殊なものなどないと感じるようになり(ある程度歳を重ねたことで、特殊もまた特殊という一般として回収する、またはされるようになる、ので気にならなくなる)、ある物事の感じ方、あるいは考え方について、誰かに理解を求めようとする心も無くなっている。その意味での孤独のようなものすら、ない。
そのせいか、自分が誰かに影響を与えているなんてことを、可能性としてすら微塵も考えなくなっている。
ということに、先日ふと気がついた。
フランスに長らく住んでいた夫のいとこ♀と話をしているときに、
「ウェディングドレスなんてバカっぽくて着れない」
と彼女が言ってるのを聞いて、まるで自分の話を聞いているような感覚になったのだ。
あれ、これは数年前に自分が彼女に言ったことなのではないだろうか。
デジャブとも違うが、自分の口にした言葉を聞いているような違和感。
彼女のようなフランス語の通訳者として活躍しながら小説やらエッセイやらを出版して、ポップでチャーミングな人間に、自分が与える可能性など微塵も考えたことがなかったけれど、もしかすると私は彼女に、影響を与えているのかもしれない。もしかするとそれほどに慕われているのかもしれない・・・。
という考えがよぎった。自意識過剰だろうか。
私が人前で結婚式なんてできないと自覚したのは中学校3年生くらいの頃だったと思う。
結婚や結婚式に憧れている友人に、「あんな恥ずかしいことがしたいのか?」という話をしていたのを覚えている。
(私はおそらく数年くらい前までは、「結婚式などバカらしすぎて、おむつを履いてでないとできない(笑いと気恥ずかしさでおしっこが漏れそう)」と心底思っていたが、今思うとなんでおむつを履かないと結婚式ができないと思ったのかわからない。)
そして高校生の頃にはサルトルやボーヴォワールの事実婚の考え方に触れて、結婚制度やその形式について否定的な思いがより強化された。
なんなら私の母は数年フランスに留学経験があるから、私がウェディングドレスを辱めのように感じる人間に育ったのも、母の教育の賜物かもしれない。
つまり私自身フランスの影響も大いに入り混じった結婚観であるから、フランスに住んでいた彼女も似たようなものを持っていたとして何一つ不思議ではない。
あるいはしかし、それを人前で憚らずに表現することが(考え方は珍しくなくとも、人前で結婚に否定的なことを言うことは排他的でありすぎる)私の影響かもしれない。
いやいや、フランス人ならそれくらいのことを平気で言いそうでもある。
むしろその排他性こそ、母から私に伝わってきた、フランス流のコミュニケーションスタイルのような気もする。
考えれば考えるほど、他人への影響などというものはわからないものだけれど、とにかく私にとってこの事態は「責任」と映った。
と言うのも、私は彼女とよく「結婚」について話をする。
(単なる自意識過剰かもしれないけど)仮にもし影響を与えているのであるすれば、、未婚である彼女に、果たして私はより良い「結婚観」を与えられているだろうか。
そもそも「結婚優位に考えさせること」だけがいい影響、ということではないけれど、私の話を聞くことで、彼女の中でますます「結婚」の二文字を排除させてしまうことがあるとすれば、どうだろう。
いや、それは避けたい。私はそんなところで人に影響を与えたくない。
私は、とことん結婚にネガティブな既婚者で、結婚恐怖症、結婚アレルギー患者だ。
そんな人間が、一人の美しい人間の未来を少しでも左右し得るかもしれないということが、恐ろしくなったのだ。
その後、彼女と顔見知りの友人にその話をした。
「あの年齢(30)、あのピュアな顔つき、そりゃ影響受けますよ。あの年齢は影響を受けたいんだから。」
と言われて、確かにそうだなと何となく納得してしまった。
年頃で多感な感性であれば、影響を受けるだろう、と。
きっと私でも、私のような排他的なことを言う人の言葉を、より真実味が帯びていると受け取って、率先して影響を受けただろう気すらしてきた。
いや、、困りますね、それは。
最近あった3つのいいこと ー案内、自覚、信頼ー
今週のお題「最近あった3つのいいこと」
最近あった3つのいいこと
①「案内」
最近ドバイから知人がきた。
けれどその人はPCR検査をして搭乗したにも関わらず、到着後にコロナで陽性となり、7日間の隔離となった。
出張できたその人は、結局隔離で出張を終えることになった。大損である。
あまりにも不運で不憫な隔離中のその人を、リモートでケアしてあげなければならないという思いに駆られて、私はリモートで案内をしていた。
ここに行くと最高に美味しいお店がある、とか、ここのカニの食べ方はこうだ、とか。
元々私たちはご飯でも行こうという話になっていたのに、ご飯を食べることもできなかったという意味ではとても残念だったが、その代わりにライン上で親しくなり、楽しくお話ししたりした。
これは彼が陽性にならなければ絶対に起こらなかったことなので、ある意味ではいいことだなと思う。
(彼が帰る前日に安倍元首相の暗殺事件があり、何もかもが少し歪んでいるようだった。リモートでその会話もして、記憶に残る出来事となった)
②「自覚」
最近かつて住んでいた街に行った。
かつて住んでいた街は、降り立った瞬間から、風の質が違い、居心地の良さが違った。
始終、「なんだこれは!」と言ってしまうくらい、気持ちが良すぎた。
私は夫に単身赴任をさせよう、と心に決めたくらい、その街が好きだということがわかった。
「この街に住みたい」ではなく、
「私はここに住んでいる!」と夫に言い放った。
私の心は今住むここじゃなく、あの街にいたのだ。
気質の合う街にいると、その土地とそこにいる自分の気が、同時に「充満している」のを感じる。
気が自分と重なって、膨らんだり萎んだりいい感じで呼吸しているというのか、生きている躍動感が得られる。
そうでない街では、土地の気と自分の気が重ならない。
紙の箱の中に入れられたカエルみたいに、行き場を失って乾き死にそうだ。
夫に単身赴任を説得する時、「海水の魚が淡水で暮らして瀕死状態なんだよ、可哀想じゃないの」と言っていた。
私は未だ合わない土地に暮らしているのだが。
自覚できるというのは何よりもいいことである。
③「信頼」
初めて友人(女性)と二人旅をした。
よくよく考えてみると私は女性と二人旅をした記憶がない。
39歳まで女性と二人旅をしたことがない。
そこまで特定の女性に心を許したことがなかったのかもしれない。
逆にこの歳になって一緒に旅をしようと誘える友人ができたことに驚きと喜びがある。
彼女に出会ったのは38なので、人は38になっても友人ができるということだ。
なんていいことでしょう、それは。
SNS、他人と繋がる互酬疲れ
S N Sの恐ろしさは、「キラキラした世界への疲れ」という言説がある。
私が感じるS N Sの疲れはどちらかというと「義理(互酬)疲れ」である。
相手が「いいね」を押してくれる人だから私も「いいね」を押す、というのは「いいね」と思ってなくてもその行為が発生するわけなので疲れる。
自分が「いいね」(またはフォロー)をしなければ相手も「いいね」(またはフォロー)しない、というのはそもそも自分自身には義理以外で需要が発生しづらいという意味で虚しい。
あるいは知らない人がフォローしてくれたのでフォローバックすると、その手法を使ってフォロワーを増やした人がいつの間にかこちらへのフォローを切っていたりする。
互酬どころか知らぬ間に利用されていることも多々あるというわけである。
S N Sというのはよっぽどのインフルエンサーでない限り(商業的に自分を加工しない限り)、根底には義理がつきものだが、
自分を商業的に加工し、売り物となった自分をS N Sで売り捌くのは、それが気持ちいいと感じる人間にしかできないし、
そもそも自分を切り売りするということは何かしらの営利のために自分自身に関し、他人に嘘をつくことを孕むことであり、
それに加え、何かをギブしてテイクしようという互酬の関係性から逃れられないという意味では特に憧れるところでもない。
インフルエンサーに自分を一対多の関係性において認められる快楽性があるとしても、その快楽性へ向けて自分の行動が縛られていくという不自由だってあるだろうし、結局のところそれほど都合の良いものではなさそうである。
つまるところ他人と繋がるということは根本的に(オンラインでもオフラインでも)不自由を原則としている。
そんなこの世の根本原則に関しては誰も何も思わないのかもしれないが、
私は結婚してから何が辛いかといえば「互酬を大原則とする経済圏、その現実感覚にガッチリと組み込まれていること」である。
そんな私からすると、なぜ休み時間に仮想空間でこれを行わなければならないのかがわからないし、
仮想空間はもっと人間にとって都合の良いものであっていいはずではないかと感じられてくる。
じゃあ互酬性のない都合の良い仮想空間は虚しくないのだろうか、疲れないのだろうかというと、そういうことでもない。
それはどんなに快楽があり得たとしても金銭を支払って都合の良いサービスを得るキャバクラやホストのようなものになってしまうだろう。
独我論に否定的な私にとっては何一つ面白くもないものになるに違いない。
それはもしかすれば結婚によって「システマティック互酬圏」に組み込まれた私から見えているSNS像、世界像に過ぎないのかもしれない。
とも思う一方で、
やはりこの世を俯瞰する視点に立てば、人はなぜこうも互酬に縛られねばならないのか到底わからないもののはずだ、とも思う。
一つの結論としては、私にとって(いわゆる他者と繋がることを第一目的とする)S N Sは、この世の現実感覚をわざわざ仮想空間で再現する意味での煩わしさを持つ謎の空間であり、他人と繋がることでなく自分から自分に有用な情報を主体的に取得しに行くという姿勢でもない限りは、義理という形式だけが残り、疲れが勝らざるを得ないということ。
ところで樹木希林氏は「あげることももらうことも否定した」と娘の内田也哉子氏が言っていたが、互酬をそのように断ち切ることはどのような関係性をもたらすのか気になっている。
その徹底した手法で、他者と嘘のない関係性に近づくことができるのだろうか。