情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

本棚の中身

今週のお題「本棚の中身」

 

幼児がいる私の家では本棚の中身とは、ほぼ「子供の絵本」のこと、みたいになっている。

 

私の日本からわざわざ持ってきた難しい哲学や物理学系の本などは、今や読んでも頭に入らないほど忙しないので、もはや飾りみたいになっている。

本棚が飾りになりつつあると共に、私の人間性はスカスカになりつつある。

 

でもじゃあその装飾品と化した本棚が無意味かと言ったら、そんなことはない。

幼い頃から、うちには誰も開かない百科事典が沢山あった。

それを「これはおじいちゃんが買ってくれたものだ」と母が大切そうに語っている違和感と言ったらなかった。

地震がきたらひとたまりもなさそうなグラグラの本棚も、亡くなったおじいちゃんの作ったものだという。

その中に入った百科事典を小学生の私が広げてみても、紙は古いし文字も小さく、語彙も昔風で難しく到底読めそうもない。チンプンカンプンである。

 

やがて私と母が海外へと引っ越して、家の荷物が全て親戚の家の倉庫に片付けられた。

その倉庫で何年も眠っていた書物が、数年後には「ネズミに齧られ糞でダメになってしまった」と聞いた。「あのおばさんはひどい、おじいちゃんの買ってくれた書物の価値がわかっていないのだ」と嘆いている母の言葉から、失われる書物の知的価値に触れるのだ。

 

母が「書物など単なるインクの染みにすぎない」というような即物的な考えの持ち主だったならば、本をとっくに古本屋で処分していただろう。

しかしそれは主に古典であったし、紙は焼けて古びていくのに、必ずや普遍的なものだと信じられていた。

それに、「おじいちゃんの買ってくれた書物」は当時のおじいちゃんの経済力とも知的趣向とも関係していたのだろう。

おじいちゃんはどう考えても裕福ではない。なけなしのお金を叩いてでも書物を持っておいた方がきっと母のため、延いては孫のためになるのだと考えたのかもしれない。

おじいちゃんは物を発明したり会社の経営を始めた人だ。知は普遍的であり、知性を蓄えることこそがこれからの時代にとって重要だと考えたのかもしれない。

いずれにしてもおじいちゃんが何かしらそれらの書物の重要性を考えてそれを財産として母に託し、母はその意図を汲み取ってその本を大切に感じている・・・

ということが母の嘆きと共に伝わるのである。

 

そういう心の振動が本棚の存在とともに私に伝わったことを考えれば、本棚の大事さは20年〜30年単位で発揮されるものだったりするということになる。

だから私は今スカスカで読めていない難しい書物も、いずれ子供に伝わる「私の心」の破片と思っている。それは私がかつて間違いなく抱いていた知的好奇心の欠片。心の動きの一部。そしてその中には母の思いも、祖父の思いも振動として伝わってきているのである。