情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

中島みゆき『糸』

言わずと知れた名曲。興味深いのは出だしの歌詞。

 

なぜめぐり逢うのかを 私たちは何も知らない

 

私はこの歌い出しにいつも聞き入ってしまう。

このフレーズは無意識のうちに、誰かと誰かの出会いに「意味(理由)」があることを前提させているように思う。

よくよく考えてみれば、本来は「出会いの意味」といったようなものがあるとは限らないにも関わらず。

 

この、たった一文の歌い出しで、出逢いに意味が存在しているかのように聞かせ、そしてまたその意味を知ることが決してないという、不可知なものに弄ばれている人間の儚さを伝えるメロディーの秀逸さ。それはそれはすごいことだ。

 

続けて次の歌詞を見てみます。

 

どこにいたの 生きてきたの 

遠い空の下 二つの物語

 

この「遠い空の下」と「二つの物語」の部分で、私は「私」でも「あなた」でもない、それを俯瞰する神のような視点を感じている。

ここで私は「奇跡的な確率によって巡り合わせた出会い」を連想させられ、運命的なものを感じさせられている。

 

けれども、そのような「奇跡的な確率によって生まれた出会い」に一体何の意味があるのか?・・・そのことが不確かなまま歌は進行してゆく。

中島みゆきは「奇跡的=意味がある」などと単純でつまらない思考をしない。(と私は思っている)

この点について漠然と感じられていることを考えるのに、サビを見ていきたい。

 

サビでは人との出会いを通じて、「誰かと私が一体となって、他の誰かに意味をなす可能性が歌われている。一番有名な部分だ。

 

縦の糸はあなた 横の糸は私 

織り成す布はいつか誰かを 

あたためうるかもしれない

 

潜在的なイメージを洗い出してみると・・・

 

まず、私たちは「糸」のか細さに儚さを感じる。

そして次に私たちは、一本一本の「糸」から織り成された「布」に決して強くはない力(ここでは意味に等しい)を感じる。

だが「糸」が「布」となることは、まだ「意味」において非力である。

もっと言えば、私たちが生きている中で、何か確実な「幸せ」や「意味」を感じられるかはわからない。

けれどももし、私が誰かと出逢い、一体となることで生まれた「布」が、他の誰かをあたたられるかもしれない、その可能性を感じてみたならば・・・

そのことにはもしかしたら意味があるかもしれない。

(私はここで、生まれたばかりの子供や、寒さに震えている人間を想像する。つまり温められなければならない人を想像している。)

 

と、こんな感じで私はこの歌を聴いていると思う。

 

一般に人は、生きることに意味があってほしいと、意識的であれ潜在的であれ、どこかで願っている。

一方で、生きることの意味を知ることは出来ないがために、漠然とした儚さを感じている。

このサビの部分の「誰かを あたためうるかもしれない」という非断定には、生きる意味への「願い」と、断定できない意味での「儚さ」が感じられるのだ。

 

そしてこの「あたためる」という言葉に、私はさらに深い意味を感じている。

というのも 「あたたかい」という感覚的な快楽が、「幸せ」というような曖昧な概念とは違って、誰もが感じたことがあるであろう普遍的なよろこびの一つだからだ。

ここに聞き手は、一種儚いながらの「確実さのある意味」のようなものを、不確定なままに見出すのだが、このことは他方、この歌詞の持つ視点が「幸せ」といったようなものを、確実な生きる意味として捉えていないことを露呈している。

 

この歌は人と人との出会いの意味と、また生きる意味と、双方を考えさせる歌だが、1番でも2番でも、私と誰かが織り成した布が「誰かをあたためうるかもしれない」「誰かの傷をかばうかもしれない」といった表現がなされるばかりで、直接的に意味をなすであろうことは語られていない。そのようにして、出会いや生きる意味の儚さや不可知さへの感度が一定に保たれている。

同時に、この歌において出会いや生きる意味は、決して「幸せ」という言葉では語られない。歌を聴いている人々の中に当然のごとく連想されてくる「幸せ」という言葉については、最後にこのようにうたわれて締めくくられている。

 

逢うべき糸に出逢えることを

人は仕合わせと呼びます

 

「幸せ」ではなく「仕合わせ」。

それは主観的な感情に与える名詞としてではなくて、「何かと何かの巡り合わせが良いこと」として、すなわち辞書の意味どおりに、極めて客観的に描かれている。

 

最高のテクノミュージック ーシュレディンガーの猫ー

これって最高のテクノだよね。

おすすめすぎるのでぜひ、聴いて下さい。

ドリルとナレーションの人の声とその内容と猫の鳴き声が、頭のなかで不穏に交わります。

 

こういうテクノが増えて欲しい。

物語のナレーションがもはや音楽の一部になっているやつってもっとあっても良いのに、と思う。

テクノではないけど、ヒカシューのパイクもそういう感じです。シュルレアリストにおすすめです。

 


ヒカシュー パイク - YouTube

www.youtube.com

既読スルーと不安について2 ー既読スルーをスルーできるか?ー

2.

 返事を待つときの不安が一つの問題になるのは、誰しもにとって心の弱い部分があるということ、それが本来的に「そういうもの(構造)である」ことを意味している。特に現代は合理的な思考をし過ぎてしまうから、「返事が来ない=無視=私を嫌いだから」とか、不安から答えを決めつけてしまいがちだし、インターネットを介してのコミュニケーションをするために「すぐに回答が貰えない」ことが多くなっているから不安と自己否定(及び他者否定)は増殖し続けるばかりだ。

 だが、知っておかなければならないのは、根本的にコミュニケーションは不完全なものであるから、あなたを好きでも嫌いでもなくとも、そういう誤解が幾らでも起こるということだ。だが誤解を生むコミュニケーションの不完全さを恐れるようになると、言葉を発することすら恐くなったりもするのが人間だ。それは自分の意味していることと違うことを受け取られる不安であったり、その誤解を解かなければならないというストレスであったりするが、そういうものは世の中に幾らでも生成され続けてしまうものなのだ。

 そしてこのことを抜本的に解消する一つの方法が「心構え」なのであるが、その心構えとは、人間にとって不安(や誤解)はそのようにして自然と生成されやすいものなのだと各人が受け入れること、またそれは相手や自分のせいで生まれている不安(や誤解)ではないのだということを知ることから、「それはそういうものなのだ」と既読スルーへの苛立ちを自らスルー出来るようになることである、と私は思っている。誤解の問題で言えば、誤解は当然起こることで、「誤解されたって良いじゃないか」と思えることが大事なのだ。

 けれどもこれは若さとか自分の中のエネルギー量とも関係していて、若いほどこういう心構えを作ることが難しく辛い。岡本太郎は「青春は暗い」と言っていたが、私は青春というものはこういう意味で大変暗いものなのだと思う(青春は暗いーは自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)に書いてあった言葉じゃないかと思う)。若い人のうちでも、求めているものが多くある人(例えば、親友が欲しいとか、本当に大切な相手を見つけることとか)とか、寂しがり屋の人、辛抱強くない人にとってそういう心構えは一朝一夕には出来ようもないので、一般的には、何か集中出来るものを持つこと(=待つ時間を違う時間として使う、返事に執着しない)などが、同じ意味でその解決策となる。

 だがもしも「本当に信じられる何かを欲しい」と思い、その一方で不安を抱え、しかし自分の不安をスルーすることも出来ない、更には集中出来る何かや娯楽等を見つけて解決するということすら嫌だ、と思われてしまう場合は、一体どうするのが良いだろうか。そういう場合は(私がそういうタイプなのだが)、「そういう不安と闘い続けるのもまた一興」と思うことが最も良いというか、多分そうするしかない。そういう「不安それ自体を味わう」とか「そういうものが人生」という考え方は、例えば保坂和志の「拠り所のなさ」へ向かう考えとか、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とかに通ずると思う。こっちの方向は多分結構根性がない限り辛い道になるようには思うが、そのドS且つドMなやり方は、「不安が生成される形式」を「知性を生成する形式」へと転じていく方法論でもあると思うので、個人的にはこれをお勧めしたいと思う。特に保坂和志氏の考えは、やんわりとそういう志向を受け入れさせてくれるので、お勧めである。

 

途方に暮れて、人生論

途方に暮れて、人生論