情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

日本のお笑いは世界一だと思うけど茂木氏を擁護する議論 —アウトサイダーへの期待感—  

ちょっと前に話題になった茂木健一郎氏のお笑い批判について記事をいくつか読んだ。

 

私は別にお笑いマニアではないけれど、かつてはライブやR1グランプリやらを劇場に見に行ったりしていて、「日本のお笑いは世界一」と思って疑わない人なので(世界のお笑いを比べたわけじゃないけど)、ニュースを知った時は、一瞬茂木さんを「?」と思った。

「ん?社会風刺?」

・・・そりゃ松ちゃんがセンスないっていうよ。

と、ここに基本みんな頷くだろうという気がした。

 

でも、

http://lite-ra.com/2017/03/post-2992.html

を読んでみると、確かに思うこともある。

 

私は別に「お笑い芸人は権力批判した方が良い」とは全然思ってはないけれども、

例えば

「深夜に亀甲縛りとかしてたような(うろ覚えだけど)バナナマンがお茶の間に溶け込んでしまっているなあ。」とか。あるいは

板尾創路氏やジュニア氏が、今じゃNHKで携帯大喜利かあ。」とか。(今田氏はなんかビジネスお笑いが似合ってるけど)

人知れず心の奥で、かすかに感じられた違和感みたいなものがある。

要は、

「かつてアウトサイダーとしての期待感を抱かせてくれていた誰かが、権力側に回ってしまった時の寂しさ」

はある。

 

基本的にやっぱりお笑いは庶民のもので、お笑い芸人には普段日常的に私たちができずにいることをやってくれたりすることへの期待感とかあるわけで、「そんなことしちゃっていいんだ?!」とか、「思考の枠組みをぶっ壊すこと」が期待されているところが存分にある。これはお笑い芸人も疑わないだろうと思う。

別に社会風刺に特化しなくたって、今でもそういうコンテンツは十分にあると思うけど、それでも昔ヤンチャしていたはずのお笑い芸人が、当たり障りのないコメントする司会者する側にいっちゃうとか、残念な感じは、私の中にもやっぱりあって、もっとギリギリな、予定調和的じゃない発言しないかなあ、とか期待してたりする。

 

とは言っても、

アウトサイダーへの期待」って、こっちの勝手な期待とも言えるし、

「給料がべらぼうに良ければ、誰でも(司会者を)誘われたらやるよなあ」とか、

「賢い生き方してるなあ」とかいう見方が頭の中で自動的に、勝手に、働いてしまっているから、通常はそのことをあえて批判すべき論点とは思っていないのだと思う。

 

このことは視聴者側が飼いならされた思考の中でお笑いを見てるってことで、エンターテイナーに期待していることを半ば諦め気味に(中途半端な気持ちで)見ているってことだ。

 

だからそういう脳裏で潜在的に消されてしまっている薄っすらとした違和感みたいなものを呼び覚ます意味では、今回の議論は意味があったと思うし、茂木さんの発言がトンチンカンでもまあ起爆剤になったからいいじゃんというか、これに乗じてもっともっと、

「真のお笑いを提供する場所とは?」

とか、

「お笑い芸人の進化系って一体どこにあるの(数字の取れる司会者になることなの?)」

とか、いろいろ議論すれば良いのに、あれだけ茂木さんが叩かれると・・・。という気がした。

 

それから古市氏の発言を見て見ると、

「(権力を批判する役割を)芸人という他人に押し付けるんじゃなくて、もし自分が批判をしたいんだったら、自分が批判するべき」

 

と、これも極めてまっとうぽい意見だけど、茂木氏はシールヅ応援とかしているのだったら、別にそれとは別にお笑い批判したっていいじゃん、とも思うし、どちらかというと批判する側を黙らせたり自己完結させるための論理を提示するよりも、社会にとって有意義な論点を考える方が生産的なのではと思う。

 

私達にとってのお笑いって何だろう。

お笑いに対する期待って何だろう。

お笑いに対する違和感があるなら、そこに付随する社会構造の問題点って何だろう。と。

 

でも古市氏の発言のおかげでわかったことは、多分茂木さんは茂木さん自身の権力批判イデオロギー的なものがお笑い批判の中に混在しているせいで、というかそういう風に聞こえる表現をしたせいで、純粋なアウトサイダーへの期待感の話とは違って、なんか共感しづらいということ。(少なくとも、私は共感しづらいと感じた。)

 

個人的な考えとしては、一般的には恐らく「お笑い芸人に反体制的であってほしい人」よりも、「お笑い芸人にアウトサイダーとしての期待感を抱いたことのある人」の方が多くいるのではないかと思うので、そのことの意義を中心にしつつ、別の議論に移行した方が有益なのではないかと思う。

 

 

 

靴下が揃う世界

 

私の母は理系で、変にロジカルだ。

そのせいで子供の頃、私の家では靴下が全く揃わないという事態が頻発していた。 

母は靴下を揃えて干さない。そして乾いた靴下をペアにしようともしない。

「両方洗濯機に入れたんなら、なくなる(揃わない)わけないでしょ。」

これが母の一貫した論理だ。

 

我が家は共働き家庭だった上に、府中から日本橋まで毎日1時間以上通勤電車に乗っていた母親は出勤時間が早かったから、私たち兄弟はいつも自分たちで朝食を食べ、着替えをし、靴下を履き、忘れ物のないようにランドセルに教科書や道具を揃え、自ら学校に出かけなければならなかった。

靴下の左右仲よく揃ったペアがまとめて洋服ダンスに入れられているなんてことは、一度たりともない。私たち兄弟からすると、そんな都合の良い話はテレビの中の出来事、すなわちフィクション的なものであった。

 

私たちの現実では靴下はビニール袋に入っていた。30、40足くらいの、靴下がビニール袋にまとめられていて、その中から一生懸命ペアを探すのである。

これは途方もない気持ちにさせられる作業で、なぜか自分で靴下を「狩って」からでなければ、学校に行くことはできない。本当に時間がなくどうしようもない時は「似てる」やつを履くしかない。

もちろん子供達は母親に文句を言う。靴下が揃わない、ペアにならない、なんでだ!と。

だが文句を言うと、母は必ずこう言い返してくるのだ。

「両方洗濯機に入れたんなら、なくなるはずないじゃない?」

私は子供の時それを聞くと、「確かに」という気持ちになって反論ができなかった。

妙にロジカルに母の問いは「もし(靴下の片方が)消えたのなら一体どこに?」という問いを含んでいて、なぜか逆に私が神隠しを主張しているような感じさえした。

ただ事実として、靴下は全然揃っていない。

 

しかもそんなに揃わないからといって靴下を諦めるわけにはいかない理由があった。と言うのも私は小学校二年生の時に、

「お前何で靴下履いてないの?ビンボー!」

と同級生に言われたことがあるからだ。

 

そういえば、その時も母に相談した。「靴下履いてないって、ビンボーなの?」

まだ何も知らない小学校二年生の娘に、母はこう答えた。

「なんで靴下を履かないことが貧乏ということになるの?うちに靴下がないわけじゃないから、貧乏ではないでしょう。むしろ履かないでいられるなんて、その人たちより健康的なんじゃない?」

私はそういわれてすごく励まされたが、その日以降靴下を履かない日はなくなった。

 

ところで、常識的な家庭に生まれることが出来たあなたはこう思うかもしれない。

「ビニール袋に揃わない靴下ががっさり入れられている家庭・・・まあなんてだらしないのかしら」

しかし恐ろしいことに、ビニール袋に入れられる前、大量の揃わぬ靴下たちは家のあちらこちらに散在していたのであり、大掃除をした時に、「わからなくならないように、ここに封じ込めておこう」としたことによって生まれたビニール袋という合理性は、私にとってはもはや疑うべき点のない、知恵そのものなのであった。

 

そんな私は、靴下というものは揃わないものなのだという信念を持って大人になった。だが無論、知恵は進化する。私たちは大人になる。何と、子供達の大小様々だった足のサイズが、皆、ほぼ同じ大きさに揃うという素晴らしい時代が到来した。

「もう揃わない靴下は嫌だ。我々は全く同じサイズ且つ同じデザインの靴下を、大量に揃えようじゃないか!」

意気揚々誰かがそう言うと、満場一致でそのアイディアは採用された。

だから私は大学時代、男物の靴下しか履くことがなかった。

比率的には女性の方が多かった気がする我が家で、家族皆が共有出来るサイズの、「男物の靴下25.0-27.0」を20足くらい一度に購入し、家族全員がそれを履いて問題のない暮らしをしたのである。

 

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その後私は親戚の家に居候をしたりしながら暮らしてきたのだが。

その都度、驚くことがある。

それは、靴下が異様に揃うということだ。

 

「・・・靴下が揃っている・・・・」

 

靴下を干すたびに、私はいつもそう感心してしまい、誰かにメールしてしまったりする。今はここに文章にすらしてしまっている。

本当に、あまりに靴下が見事に揃うものだから、今では1デザインにつき1足しか購入しないのが常識となった。これは私の中では「ちょっと調子に乗っている」。神様に嫌われないか心配だ。(とはいえ、この境地に至るまではかなりビクビクしていて、大学卒業後も数年くらいは、だいたい最低2、3足くらいは同じ靴下を買ったりしていた)

 

そんなこんなで、靴下の自由を勝ち得た私は今、若干自分がフィクションの世界に生きているような心地がしている。だって、靴下が揃う世界があってその世界の住人になることができるとは、夢にも思っていなかったから。

男性の性欲についての友人Hの見解 ー人類基本勃起不全説ー

以前、友人Hが男の性欲についての面白い見解を語ってくれた。

私はその論理を聞くのがなかなか好きで、幾度か説明をしてもらったことがある。

(他の友人によれば、その論理は心理学者の岸田秀に影響を受けたものに違いないとのことだが、何れにしても主旨は次のようなものである。)

 

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まず、人間の男性というのは基本的にインポテンツである。

なぜならば人間の女性は発情期がわからないように進化したから、人間の男性はいつ発情したらいいのかがわからないのである。

根本的に動物は、メスの発情を感知してからのみ、即ち「自らが許容されている場合においてのみ」発情し、交尾を行う。

しかし発情期が感知できないように進化した人間は、このようなサイクルから逸脱してしまった。

人間の女性の尻は赤くならない。発情期特有の分かりやすい匂いを発することもない。

 

レイプが起こるのは、このためだ、と友人Hは言う。

人間が動物のような定期的な発情期を失って、年がら年中発情しているのは、むしろこのような事情によるのだ、と友人Hは言う。

 

一体どういうことか。

 

つまり発情期を失った人間は、繁殖のために「発情する文化」を人工的に作り上げているのだ。

例えば「肌を隠す」ことによって「肌を露呈した時」が発情の合図になる、といった具合に。

そして何よりも、AVやエロ本が存在するのは、我々人類が発情期を失っているためなのだ。

偽の発情期は常に生産され続けている。

そしてこの倒錯した性の形態こそが、社会の様々な問題を生み出しているのだ。

 

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もしかすると細部は若干Hの考えと異なっているかもしれないが、これはなかなか面白い考え方じゃないだろうか。

彼の考えに基づけば、

「男の性欲は強いから、常に処理されなければならない(よってAVやエロ本によって性欲処理をすることは男にとって不可欠である)」

という言説はそもそも「偽」なのである。

インポテンツであるがゆえに生み出された発情のためのカルチャーが存在することによって、「男の性欲が生産され続けているにすぎない」のである。

もっと言えば、すべての性犯罪は「男性の性欲が強いことに起因する(そのうちのコントロールが効かなくなった一部の男性が犯罪を犯してしまう)」のではなくて、「倒錯した人間の性欲の形態の問題」なのである。

 

私はこの論旨を理解するのに結構な時間を要した。

それは恐らく「男性の性欲が一般に強いこと」を常識とする考えが私の中にあったからだろう。

 

果たしてこのHの考えに対して、男性自身は一体どう考えるのだろうか。

そもそもこれは人類学者や心理学者などが討論するに値するアカデミックな視点であるから、教養のない凡人がすぐさま聞いて頷けるようなものじゃないかもしれない。

けれどもこれは非常に面白い考え方で、

「男性がいざ性行為に及ぼうとして緊張して勃たなくなる」

といったような一般的な事象を十分に説明しうる論理でもある。

この説に基づけば、

「女性に許容されているかが不確かである限り、男性は本来勃たない」

のが当然なのであり、勃起不全は病気ではない、ということになる。

だから勃起不全の男たちも、そのことで悩む必要などあまりないように感じられてくるかもしれないし、

また女性たちがこの見解を前提にすれば、女性たちは性行為の際、まずは男性を安心させることに配慮をするようになるかもしれない。

 

また男性の性欲たるものがいかなるものかを考えることは、一般的な生活の上ではあまり必要がないことのように思われるかもしれないが、社会問題を考えるときに不可欠になる。

例えば従軍慰安婦問題を考える際、あるいは世の中にはびこる強姦をいかにして減少させられるか、という問題を考える際、

「男性の性欲の強さを自明のものとして考えるかどうか」

は、実に根本的な問題である。

 

実際私は従軍慰安婦の問題を考えている時に、Hに意見を伺い、その際にHの中からこのような根本原理についての話が出てきたのだが、

他の人々が、男性の性欲の強さを自明のものとした上で論理を組み立てていくのに対して、Hだけが根底をひっくり返すような意見を私に与えてくれた。

 

現在であれば「そもそも"男性の性欲"を一括りにはできない」といったような、多様な性のあり方を主張する意見もあるであろうし、

あるいは人間の性欲の強さには栄養過多といったような医学的要因だって重なっているに違いないのだが、

とはいえこの一般常識に反したHの考え方が一考に値することだけは確かだろうと思う。