情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

美容室恐怖症

 

同じ美容室に三度といけない、いかない。

それが私の思う美容室恐怖症である。

 

心地よいと感じる場所がないわけではない。

だからとて同じ人と顔を合わせようという気にならないということなのかもしれない。というのが最近の感想である。

私に引っ越しが多いせいもある。

でもそれだけかというとそれも違う気がする。

 

問題は私の趣味趣向を相手に伝えなければならない。

そのためにコミュニケーションをしなければならない。

なんと伝えれば美容師によって表現がしやすいかを前もって考えなければならない。

服装も選ばなければならない。

しかし人間の趣味趣向は統一されたものでもない。

伝えるに限界がある。

相手は忙しい。

結局、必ずしも私の好きな髪型になるわけじゃない。

加えて選択肢が無限すぎる。

 

…なんて不都合な場所なのだろう。

 

私は常々、選んだ髪型に合わせてレーザーでジュッと髪の毛を一瞬で焼いてくれるようなボックス型の機械はできないものかと思ってきた。

でもそんなものはまだない。

 

 

本棚の中身

今週のお題「本棚の中身」

 

幼児がいる私の家では本棚の中身とは、ほぼ「子供の絵本」のこと、みたいになっている。

 

私の日本からわざわざ持ってきた難しい哲学や物理学系の本などは、今や読んでも頭に入らないほど忙しないので、もはや飾りみたいになっている。

本棚が飾りになりつつあると共に、私の人間性はスカスカになりつつある。

 

でもじゃあその装飾品と化した本棚が無意味かと言ったら、そんなことはない。

幼い頃から、うちには誰も開かない百科事典が沢山あった。

それを「これはおじいちゃんが買ってくれたものだ」と母が大切そうに語っている違和感と言ったらなかった。

地震がきたらひとたまりもなさそうなグラグラの本棚も、亡くなったおじいちゃんの作ったものだという。

その中に入った百科事典を小学生の私が広げてみても、紙は古いし文字も小さく、語彙も昔風で難しく到底読めそうもない。チンプンカンプンである。

 

やがて私と母が海外へと引っ越して、家の荷物が全て親戚の家の倉庫に片付けられた。

その倉庫で何年も眠っていた書物が、数年後には「ネズミに齧られ糞でダメになってしまった」と聞いた。「あのおばさんはひどい、おじいちゃんの買ってくれた書物の価値がわかっていないのだ」と嘆いている母の言葉から、失われる書物の知的価値に触れるのだ。

 

母が「書物など単なるインクの染みにすぎない」というような即物的な考えの持ち主だったならば、本をとっくに古本屋で処分していただろう。

しかしそれは主に古典であったし、紙は焼けて古びていくのに、必ずや普遍的なものだと信じられていた。

それに、「おじいちゃんの買ってくれた書物」は当時のおじいちゃんの経済力とも知的趣向とも関係していたのだろう。

おじいちゃんはどう考えても裕福ではない。なけなしのお金を叩いてでも書物を持っておいた方がきっと母のため、延いては孫のためになるのだと考えたのかもしれない。

おじいちゃんは物を発明したり会社の経営を始めた人だ。知は普遍的であり、知性を蓄えることこそがこれからの時代にとって重要だと考えたのかもしれない。

いずれにしてもおじいちゃんが何かしらそれらの書物の重要性を考えてそれを財産として母に託し、母はその意図を汲み取ってその本を大切に感じている・・・

ということが母の嘆きと共に伝わるのである。

 

そういう心の振動が本棚の存在とともに私に伝わったことを考えれば、本棚の大事さは20年〜30年単位で発揮されるものだったりするということになる。

だから私は今スカスカで読めていない難しい書物も、いずれ子供に伝わる「私の心」の破片と思っている。それは私がかつて間違いなく抱いていた知的好奇心の欠片。心の動きの一部。そしてその中には母の思いも、祖父の思いも振動として伝わってきているのである。

異邦人

先日、異邦人と呼ぶべき女性に出会った。

明らかに行動の原理が違う。

私が語る言葉の聞き方が他の主婦のそれと違う。(彼女も主婦だ)

わかりやすく排他的で、共通点ではなく「差異」に注目しているといったような。

 

彼女は15歳から異国暮らし、ある道のプロフェッショナルとして異国で、人種のるつぼのを中を生きた。

ヨーロッパでは3言語くらい話すような人とばかり友人であったという。

親友は12歳上の男性でゲイだという。

日本の主婦の親友が12歳年上の男性のゲイであることは、傾向としてまずない。

 

家に帰ってから、「日本語が喋れる外国人と出会ったんだな」という思いがする。

そして「差異」に注目するような語らいの後で、私は自分の輪郭を得るような思いがした。

 

彼女は日本人コミュニティを恐れ、外人を交えた場合は日本人とすら外国語で喋るという。(しばらくそのようなコミュニティでしか日本人と出会ったことがないという)

私が作った日本人コミュニティへの参加を拒否し、

「日本人は最後は「飲んでいえーい」というところに行き着くという感じがしてしまう」

と言っている。

その感じ方を日本人コミュニティ管理人である私に正直に伝え、しかもコミュニティへの参加拒否してくるあたりに、私は「異邦人だなあ」と感じて、とても新鮮な感覚と好感を抱いた。

 

これに対して主婦との語らいというのは、やはり「共通点」にフォーカスされやすいということなのではないかと思う。

共通項への共感、経験談による発散とアドバイス(貢献)、そして忘却。

感謝とギブアンドテイク。

予定調和がどうしても連続しやすい。

人々の優しさ、親切心に向けて、お互い牙を見せないよう、決して逆撫でしないよう、細心の注意が払われる。

私自身主婦であり、相手にそのようなあり方をしていると感じるのだけれど、それによって徐々に、私の輪郭は失われている。

 

異邦人は「私」の視点が先立っていて、「私はあなたとは違う」というのが先にくる。

安易な共感でもない、予定調和でもない対話である。

私はそれが快いと感じた。

本来私にも備わっているはずのその異邦人性が、彼女にはキチンとキャッチされていると感じた。

人間の奥底にある排他性と個人的な感覚の言語化への姿勢が、鏡となって、私を映し出す。

そしてお互いのあり方の特異さに驚く。