情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

脱毛広告と美の問題2 ー社会的価値と自分的価値ー

 

 大分時間が空いてしまったが(なんと3年)、3年前から下書きに入れて放置してあった、「脱毛広告と美の問題2」。

 

 このムダ毛処理問題は、敷衍すると「社会的価値=自分的価値」としてしまう問題へと発展する。毛に対する考え方ーーー広告によって作られた「社会的価値」を、あたかも「自分的価値」としてイコールで繋いでしまうことは、自分を抑圧することに繋がっていて精神衛生上も良くない。(本当はそれに「社会的価値」すらあるのかわからないのに、いつの間にかそれが当たり前になると、社会がそれを重要な価値観だと思い込み出す)

 私が中高生の頃、中国に暮らしていた時も、韓国人男子学生たちがタンクトップからはみ出る中国人女性の脇毛を笑っていたことがある。それは慣習や美的価値観の違いに過ぎないが、彼らはあたかも脇毛が出ていないことが「先進的」であり、それを知っていることが優れていることだと言わんばかりだった。

 その価値観は近代化による服装の変化に従って現れた新たな慣習であり、先進国ほど早く人口に膾炙したものではあるのだろうが、今や脱毛広告という資本主義的な価値の捏造行為は男性の領域をもおかしつつあるので、これが続けばいずれ(というか今もすでに始まっている)男性も脱毛を要請する・されるようになるだろうし、この目線で見ると今現在男の脇毛がはみ出ていることだって、私からすれば「いとおかし」だ。彼らは単純に今現在の社会的なコードに従って他人を笑っているだけに過ぎない。他人の脇毛を笑うくらいなら、自分の脇毛を恥じている方が慎ましいし、私のように広告によって自分の脇毛の存在を抑圧されたくなければ、やはり「社会的価値=自分的価値」としてしまう恐ろしさについて考えなければならない。

 

 でも「誰が一体、社会的価値=自分的価値」としているのか?

 そんなの、紛れもない「私」だ。

 抑圧を感じている私が、まずもって社会的価値を自分的価値と結びつけているから苦しいのだ。

 

 私が市場価値で己の価値をはかられることから「降りて」しまえば、抑圧など何も感じなくなる。どう見られても構わないと思えれば苦しくなどない。広告を読む私が、「広告が私を見ている」と感じるから苦しいのだ。

 そして私はどこかで「私をありのまま表現して、それを社会に受け入れられたい」と思うのに、それが出来ずに社会的価値をただ受け入れる態勢で臨むから苦しいのだ。

 

 資本主義社会では人はいつも市場価値に晒されている。(いや、恋愛や結婚のことを考えれば人はいつの時代もそれなりに市場価値に晒されているのだろうけど、資本主義ではメディアや広告などの媒体と共に、過激に市場価値に晒されているという方が良いだろう。)特に未婚の男女は、結婚という目的を前にして、結婚市場の価値に晒されている。そして結婚ができて子供が産めて安定した収入があれば、どんどんと己が己らしくなっていく人もいるし、あるいは結婚も出産も収入も手に入れても、己が社会的価値から逸脱し過ぎるのを恐る人もいる。

 

 こうなると「嫌われる勇気」を持てるか持てないか、結局自分次第という話になるが、でもきっと自分的価値を優先しやすい社会であるかどうかは社会の形態による。

 学校教育の中、30人のクラスの中でお互いを監視し合っている今の感じでいれば、皆当然個人の個性を出すことに恐れを感じる。平均であるか平均以上であるように、どうしてもそれぞれを比べ合って、そこで認められるように意識する。

 きっと個人的な価値を良しとする社会であればあるほど精神的な抑圧は減り、経済的な抑圧の方に問題が向き(経済的な問題はいずれ精神の抑圧になるけれど)、逆に社会的な価値を良しとする社会であればあるほど精神的な抑圧に問題に目が向くのではないか。そして大雑把に国で分ければ、アメリカが前者で、日本や韓国は後者であるような気がする。ただし自分的価値を優先し得る国では、それなりに別の不快な物事が起こるであろうと考えれば、決して日本の教育が悪いと言えるわけではない。単に自分的価値を発揮できないことに抑圧を感じる人間だけが、そういう教育を受ければいいだけの話かもしれないのだ。

 

 数年前この話の1を書いた時には、イギリスでも反脱毛のための運動とかがあったらしかったし、このブログのアクセスを見てもこの「脱毛広告と美の問題」の記事は上に来ていることが多かったのもあり、きっとやはり深層心理で「広告とか資本主義の戦略的なものとの個人的な闘い」を繰り広げている人は少なくない。同様に男性も、包茎手術の広告に疲れているかもしれないし、誰かは収入がないと結婚できないよという記事に疲れているかもしれない。どこで人々が社会的価値によって精神を抑圧されているかはわからないものだが、それを事前に察して、「それも実は良いものなのだよ(色んな個別ケースがありますよ)」と言う文脈が社会に流れているかどうかは結構重要なのではないかと思う(なぜなら意外と流れていないものだから)。

 というのは単に彼等を抑圧から解放する意味においてではなく、彼等の自分的価値を後押しする意味において、である。

 

 心理的負担のない社会などないし、皆それぞれ自分の心に嘘をついて生きるものだし、結局は広告とか社会が作り上げた嘘くさいキャッチフレーズとか、美的感覚に私の自分的価値が流されるかどうかは、自分的価値の強度次第なのだけれど、少なくとも私は、(ことこの話においては)脇毛が生えていても美しいかもしれないという野生的な美の可能性について誰かと語りたいし、その語りにおいては何もゴーギャンアンリ・ルソーなどの権威ある芸術家が描いた作品の名前を出さずとも、同意を得られるくらい、柔軟な美的視線のある世の中になってほしいと思う。