異邦人
先日、異邦人と呼ぶべき女性に出会った。
明らかに行動の原理が違う。
私が語る言葉の聞き方が他の主婦のそれと違う。(彼女も主婦だ)
わかりやすく排他的で、共通点ではなく「差異」に注目しているといったような。
彼女は15歳から異国暮らし、ある道のプロフェッショナルとして異国で、人種のるつぼのを中を生きた。
ヨーロッパでは3言語くらい話すような人とばかり友人であったという。
親友は12歳上の男性でゲイだという。
日本の主婦の親友が12歳年上の男性のゲイであることは、傾向としてまずない。
家に帰ってから、「日本語が喋れる外国人と出会ったんだな」という思いがする。
そして「差異」に注目するような語らいの後で、私は自分の輪郭を得るような思いがした。
彼女は日本人コミュニティを恐れ、外人を交えた場合は日本人とすら外国語で喋るという。(しばらくそのようなコミュニティでしか日本人と出会ったことがないという)
私が作った日本人コミュニティへの参加を拒否し、
「日本人は最後は「飲んでいえーい」というところに行き着くという感じがしてしまう」
と言っている。
その感じ方を日本人コミュニティ管理人である私に正直に伝え、しかもコミュニティへの参加拒否してくるあたりに、私は「異邦人だなあ」と感じて、とても新鮮な感覚と好感を抱いた。
これに対して主婦との語らいというのは、やはり「共通点」にフォーカスされやすいということなのではないかと思う。
共通項への共感、経験談による発散とアドバイス(貢献)、そして忘却。
感謝とギブアンドテイク。
予定調和がどうしても連続しやすい。
人々の優しさ、親切心に向けて、お互い牙を見せないよう、決して逆撫でしないよう、細心の注意が払われる。
私自身主婦であり、相手にそのようなあり方をしていると感じるのだけれど、それによって徐々に、私の輪郭は失われている。
異邦人は「私」の視点が先立っていて、「私はあなたとは違う」というのが先にくる。
安易な共感でもない、予定調和でもない対話である。
私はそれが快いと感じた。
本来私にも備わっているはずのその異邦人性が、彼女にはキチンとキャッチされていると感じた。
人間の奥底にある排他性と個人的な感覚の言語化への姿勢が、鏡となって、私を映し出す。
そしてお互いのあり方の特異さに驚く。