情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

世界遺産って何だろう。

 どこどこが世界遺産になります、という話しをニュースなどでよく聞くけれども、世界遺産って何だよと思う人も少なくないはず。富士山は富士山であるだけでも美しいのに、どうして世界のよくわからん機構に箔付けされなければならないのだ、と疑問になる(富士山は結構古い話しだけど)。その一方で、当然世界遺産認定に伴う経済効果というものがあるので、地方都市が喜ぶ理由もよくわかる。だが、何だか腑に落ちないものがある。

 世界遺産だけではなく、ミシュランとか、世界の住みやすい街ランキングとか、宗教対応安全のシール(コーシャマーク)を貼る団体とかのニュースを見ると、欧米人は本当にそういう格付けとかレッテルを貼ることを仕事にするのが上手だなあと思うが、こんなの真に受けすぎない方が良い、というかそういうのがそんなに好きなら、日本人も自分たちで作れば良いのにと思われてくる。

 そもそも世界遺産、世界の住みやすい街ランキング、世界大学ランキングなどというのは前提として「評価のための基準」が必要で、その基準は誰かの作った基準であるから、「そもそもその基準ってどうなの」と問うこと自体の価値は永遠に消滅しない。なぜ私たちが勝手に格付け基準が決まっているその世界観に合わせていかなきゃいけないのか?その理由がどこにもないのに、「格付け→話題→経済効果→格付け」みたいな循環にはめさせられている気がして嫌になる。その対象の中に富士山が入ってしまったりするのは、村一番べっぴんの娘が「美少女図鑑」に入るとか、有名プロダクションに所属してメディアでその魅力が拡散される、みたいなことなんだろうけど、何だかとても光栄なようでとても残念な感じもある。

 有形の世界遺産に限って言うと、私がよく思うのは、

「そんなに遺産を増やしていって、1万年後とかどうするつもり?」

ということだが、歴史的建造物として箔付けされた建造物に人が執着を持ち始めると、「世界遺産巡り」とかを趣味にし出す人が出てくるうちはまだいいが、その後はもう執着として定着し、いずれ「絶対に取り壊させない」という怨念のようなものになってゆくわけで、 そういう感情移入で街が埋め尽くされていくとすれば、後々の子孫にとって迷惑なのではないだろうかと思われてくる。

 しかも歴史哲学的に考えていくと歴史の基準は曖昧になってくるものであるから、いつか「結局全部歴史的遺産だった。」ということになったりしないのだろうかということも疑問になる。そもそも歴史的建造物が建てられる前にも、その土地には歴史があるわけで、その主を追い出して建てられた建物とかが、歴史としての認定を受けるってどうなのということとか、究極的には「今ここに落ちている石ころも宇宙」的な観点からいくと、世界遺産て何さ、という気持ちはどうにもこうにも拭えない。

 所詮地球の土地は有限なので、その範囲がどんどん被世界遺産認定物によって狭められていくという感覚を持つと、そう喜んでいられないし、「断捨離も必要じゃないの?」と予め思ってしまう。しかし、それに「いやそれはそれで良いんだ。私たちはそのうち他の星に出て行くのだから」という感覚があるならわかるのだが、その頃にはもう日本は「日本列島という観光地」ということになるのだろうかとか、それって本当に文化を守ったことになるのだろうかとか思う。そういうことまでひっくるめて考えると、歴史というのは本当に勝手に力関係が出来ていって、後から文句を言ってももう取り返しがつかない、みたいなことの連続だなあと思う。