家族恐怖症
私は結婚する前から結婚を欺瞞だと思っている節がある。
私ほど結婚に拒否感を感じている人間が実際に結婚するケースは稀なんじゃないかというほど、私と結婚の相性は悪い。
結婚が欺瞞だというよりは、私が結婚という私にとっての欺瞞をなぜか遂行している欺瞞に満ちた人間なのだけれど。
でも一言で言ってしまうと、私にとって結婚は欺瞞なのだ。
夫にもそれは伝えてあって、彼も承知の上で結婚している。
念のために言っておくと私の夫は韓国人で、国際結婚の場合、事実婚というわけにはいかない。結婚しないとビザが取れないのだ。
私は相手の親族と義理を掛け合うことによくわからない恐ろしさを感じている。
誕生日やお中元、お歳暮のようなものを贈り合うことに何の意味があるのかわからないが、よくわからないなりにカカオトーク上のボタンを押して簡易的に品物を送ったりする。この無駄なポトラッチにお金を掛け合う苦痛。返礼をしなければ常識を疑われる精神的苦痛。
結婚して数回目の会合で、義母から、「(私たち)家族じゃない。」と言われた時には、私は知らない人間と紙一枚で家族になったことに身震いがする思いだった。
別に彼らが嫌いな訳じゃない。彼らは良い人であり、どちらかというと好きだが、将来にわたって私にアレヤコレヤと義理の負担を負わせてくると思うと恐ろしくなってしまうのだ。友人として過ごしていくことが前提ならば、もっと好きだったかもしれない。
普通の人たちがどうやって急に、知らない人と家族という縛りをお互いの首に括り合うのかがよくわからない。私は知らない人たちに突如妻という役割を期待され、また演じさせられると思うと、どうしても生理的な拒否感が生まれてしまう。
私は別にそういう自分を正当化したい訳でもないし、結婚している人がおかしいと言っている訳でもない。ただ、こういう個人の心境を表す言葉くらい欲しいと思う。私は多分そういうのに生理的な拒否感、恐怖感を感じてしまうたちで、男性恐怖症とかと同じように「家族恐怖症」なのだ。
例えば義理の兄弟の子供の写真を見せられる。
赤ちゃんとしてそりゃあ可愛いが、だから何だというのだろう、という気になる。まだ喋りもしない赤ちゃんは、自分にとっては何一つ関係のない人の子供、という気がしてしまう。それを「あなたの甥よ」と言われる。
なんだか父親が勝手に再婚して連れてきた女性に「今日から私があなたのお母さんよ」と馴れ馴れしく言われるような気分だ。
でも一般的には、継母への違和感は理解されても、義理の家族や兄弟の子供へのこんな気持ちは冷淡極まりないということになる。要はちっとも「あるある」じゃない。だから私の中で、家族にそんな感情を内心で抱いているのは「おかしい」と思われてしまうだろうという恐怖がある。だからこんな感情を誰かに言いだすことも、ただ心の中に抱えてることも、簡単なことじゃない。
でも本来なら、全く知らない人間と突如家族になるのに、どうして拒否反応が起こらないなんてことがあるのだろう?
と、私の方がまともなのではないか、と思わないわけでもない。
問題は私と常識的な人とでは、タイムラグが激しいことだ。
義母はそのうち私の中で母になるだろうし、甥はきっとそのうち私の中で私の甥になるだろう。
私はただ、今すぐ私の中でその関係を形成することはできないし、義理の優しさや愛情を期待されたくないだけなのだ。
私が誰かの子供を可愛いと思うには順序がある。
交流をしていると、純粋に子供らしく近寄ってきてくれる。
そうすると私の中にもその子への情が生まれて、心から可愛いという感情が生まれ、何かをしてあげたいという気持ちが生まれる。
でも、それならば、
「可愛いという気持ちが芽生えたら可愛がればいい。家族であろうとなかろうと。」
と思われてくるし、
「戸籍上、家族だからなんだというのだ?なぜ、この括りの中で愛情を注ぐように仕向けられているのだ?」
と思われてくるし、
「なぜ人間は家族を人一倍気にしないといけないのか?」
「なぜ、人間は家族に率先して利益を分配し、共有することが自明かのように振る舞うのか???」・・・・
家族恐怖症の私には、こういう家族否定の発想が次々と入り混じってくる。
家族という括りの中で、お互いを大切にしあうこと。
そういう共同体に参加するのが得意な人間がいれば、不得意な人間もいる。
不得意な私は、家族を中心とした共同体の観念が、どうもけち臭くて、鬱陶しい気がしてくる。
私と夫は血で繋がっているわけじゃないのに、なぜか血族と義理のやりとりが諸々セットで付いてくるという違和感。
未来の人間たちには、血で繋がるのではなく、魂で繋がる方法はもっと他にあるんじゃないかとか、家族を中心とする時代は終わるのではないかとか(実際今はもう終わりかけなのかもしれないが)、
未来の人間たちは結婚という古いシステムで交わされる義理の感情を不思議がって見るのではないかと、想像上の「別様の世界」に思いを寄せつつ、、、
私は現代の結婚生活を生きている。
先日も家族の会合の前に、「会うのが嫌なわけじゃないけど、どうして家族だからという理由で年中会わないといけないの?」と夫に聞いた。(年中と言っても、年に3−4回程度だが)
夫は私の性格を知っているから、ニコニコしながら、
「保険だよ、将来のほ・け・ん。家族以外が、何かあった時に助けてくれると思う?助けてくれないじゃん。さ、行こ!」
と言ってくれる。
家族恐怖症の私の言葉を聞いても、夫の家族を否定していることとは取らず、嫌悪感を持たずに対応してくれる優しさ。
理屈っぽい私に、どうにか理性で納得のいく合理的な理由を言って納得させようとしてくれる優しさ。(保険という機能なら、代替可能なシステムが現れた時に不要になるわけだから、やっぱり家族っていらないんじゃないか、となるが)
そういう優しさに世話をされながら、私は結婚生活を続けている。
世の中には様々な、まだ言葉にされていない違和感があるだろう。
通常私のような人間は、結婚しないのが吉なのだと思う。
ただ、私がもし私の個人的な感覚だけで生きようとしたならば、世間と相容れないがゆえに(例えば私は自由にして良いと言われたならば家族の葬式にもいかないタイプだろう。なぜに集団で人の死を弔うのかすら昔から理解ができない。)、しかしそれでは私はこの世界に「生きた」ことにならないのではないかという疑念があるがゆえに、私は差し当り世間に妥協することに慣れきってしまっているし、
また私のような人間が、自己を正当化仕切らずに生きることも、一個人が関係上の齟齬を言語化する契機となるのであるから、何かしらの意味はあるだろう。
もしかすると私は家族の持つ「所有」の観念に疑問があるのかもしれない。
私の子供、私の夫、私の母。
それは本来どれ一つとして「私のもの」じゃないが、核家族化は、教育も夫婦関係も介護も、最上級にそれらを所有されたもののように扱うことを強いる。
そんなもの、戸籍上の管理は楽かもしれないが、生物的には無理がある。
こういうことは人類学的に婚姻制度と所有の観念の関係性について調べてみたりしなければわからないことだろうと思うが、私はその所有による「関係上の隷属感」に欺瞞や窮屈さを感じているのかもしれない。