大人になると本当のことが言えなくなる
「大人には本音と建前がある」と思われているくらいなら、それはまだ救いようがある。
何が本音かが明らかであるからだ。
そうではなくて、大人になると本当のことがわからなくなり、そして言えなくなってくるのを感じる。
心の奥底で、本当のことのように思われていることが一体何なのかがわからないのだから、基本的には気にしていない。気にしようがない。
ただ時々、誰かの語気の強い語りがかつての自分に突き刺さる時、「ああ、自分には本音がなくなっているのだな」と気づく。
別に大人になるというのは悪いことじゃない。
私が問題にしているこのことの本質において、大人になるということは「一般的なるもの」に準ずるようになること、である。
ある物事の背後にそれ以外の可能性を、より多く感じられるようになること。
そしてそれは精神が中庸状態になることでもあり、「それもわかる、あれもわかる」(=物分りが良くなる)が故に、明確な批評精神を失いかける、ということでもあるが、
他方、対峙する物事の仲裁を行うことが出来るような知性が備わってくる。
でも、何かをきっかけに、ふとかつての自分の思いが一旦前に出てきてみると、
それを失ってしまった自分に気がついた私は、寂しい。
大海に落ちた一滴の水のような、拠り所のない気持ちだ。
人は色々な人の思いに共感するうちに、自分が誰だかがわからなくなる。
人と思いを共有することにはそれ自体に価値があるように思われるのに、
それ自体は成長であったはずなのに、
自分自身というものが消えて、何を見ても共感出来るようになった私は、
本当は何にも感動していないのではないか?・・・と疑われてくる。
あれも、これもと、様々なものを美しいと感じる心が、
よどみなく流れる川のようになってしまったことを、
「消費者根性丸出しではないか」と批判する自分がまだどこかに残っているだけ、
私は自分自身が幾分かまだマシな方だと思いたいが、
何かを批判することもなく、中庸的で、自分自身も悩みのない者になることが、果たして私の人生の目的だったのだろうかと思うと、そうではなかったはずだと言わざるを得ない。