情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

最高のテクノミュージック ーシュレディンガーの猫ー

これって最高のテクノだよね。

おすすめすぎるのでぜひ、聴いて下さい。

ドリルとナレーションの人の声とその内容と猫の鳴き声が、頭のなかで不穏に交わります。

 

こういうテクノが増えて欲しい。

物語のナレーションがもはや音楽の一部になっているやつってもっとあっても良いのに、と思う。

テクノではないけど、ヒカシューのパイクもそういう感じです。シュルレアリストにおすすめです。

 


ヒカシュー パイク - YouTube

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既読スルーと不安について2 ー既読スルーをスルーできるか?ー

2.

 返事を待つときの不安が一つの問題になるのは、誰しもにとって心の弱い部分があるということ、それが本来的に「そういうもの(構造)である」ことを意味している。特に現代は合理的な思考をし過ぎてしまうから、「返事が来ない=無視=私を嫌いだから」とか、不安から答えを決めつけてしまいがちだし、インターネットを介してのコミュニケーションをするために「すぐに回答が貰えない」ことが多くなっているから不安と自己否定(及び他者否定)は増殖し続けるばかりだ。

 だが、知っておかなければならないのは、根本的にコミュニケーションは不完全なものであるから、あなたを好きでも嫌いでもなくとも、そういう誤解が幾らでも起こるということだ。だが誤解を生むコミュニケーションの不完全さを恐れるようになると、言葉を発することすら恐くなったりもするのが人間だ。それは自分の意味していることと違うことを受け取られる不安であったり、その誤解を解かなければならないというストレスであったりするが、そういうものは世の中に幾らでも生成され続けてしまうものなのだ。

 そしてこのことを抜本的に解消する一つの方法が「心構え」なのであるが、その心構えとは、人間にとって不安(や誤解)はそのようにして自然と生成されやすいものなのだと各人が受け入れること、またそれは相手や自分のせいで生まれている不安(や誤解)ではないのだということを知ることから、「それはそういうものなのだ」と既読スルーへの苛立ちを自らスルー出来るようになることである、と私は思っている。誤解の問題で言えば、誤解は当然起こることで、「誤解されたって良いじゃないか」と思えることが大事なのだ。

 けれどもこれは若さとか自分の中のエネルギー量とも関係していて、若いほどこういう心構えを作ることが難しく辛い。岡本太郎は「青春は暗い」と言っていたが、私は青春というものはこういう意味で大変暗いものなのだと思う(青春は暗いーは自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)に書いてあった言葉じゃないかと思う)。若い人のうちでも、求めているものが多くある人(例えば、親友が欲しいとか、本当に大切な相手を見つけることとか)とか、寂しがり屋の人、辛抱強くない人にとってそういう心構えは一朝一夕には出来ようもないので、一般的には、何か集中出来るものを持つこと(=待つ時間を違う時間として使う、返事に執着しない)などが、同じ意味でその解決策となる。

 だがもしも「本当に信じられる何かを欲しい」と思い、その一方で不安を抱え、しかし自分の不安をスルーすることも出来ない、更には集中出来る何かや娯楽等を見つけて解決するということすら嫌だ、と思われてしまう場合は、一体どうするのが良いだろうか。そういう場合は(私がそういうタイプなのだが)、「そういう不安と闘い続けるのもまた一興」と思うことが最も良いというか、多分そうするしかない。そういう「不安それ自体を味わう」とか「そういうものが人生」という考え方は、例えば保坂和志の「拠り所のなさ」へ向かう考えとか、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とかに通ずると思う。こっちの方向は多分結構根性がない限り辛い道になるようには思うが、そのドS且つドMなやり方は、「不安が生成される形式」を「知性を生成する形式」へと転じていく方法論でもあると思うので、個人的にはこれをお勧めしたいと思う。特に保坂和志氏の考えは、やんわりとそういう志向を受け入れさせてくれるので、お勧めである。

 

途方に暮れて、人生論

途方に暮れて、人生論

 

 

 

既読スルーと不安について1 ー既読スルーをスルーできるか?ー

1.

 既読スルー(及び未読放置)の不安というのは、基本的には「相手がどう思っているのかわからない」ということに対しての不安であるが、本質的には事態が未決定のままあることへの不安であると思う。

 不安を不安のままに保つことは人間にとって難しい。可能性を可能性に留めておくのは難しい。ある程度心ある人ならば、最初は相手が返信出来ない状況にいるという可能性を「ああかな。こうかな」と考えて配慮して自分をコントロールしようとする。しかしあまりにも返信がこないと、今度は不安がイライラになり、それを解消するために、「そんな思いをさせてくる相手が悪い」とか、「私が何かいけないことを言ったのだ」ということにしてしまうことがある。自分が制御不可能になるのだ。既読スルーから派生するいじめや自己否定、関係のこじれの原因はここにあると思う。

 本来はただ「そういうこともある」と割り切れれば良いのだが、なかなか割り切れない。相手が好きな友達や恋人ならなおさら割り切れない。さんざん思いやって、自己否定をして、そのうち次第に自分の苦しむ思いを受け止めない冷酷さを感じてしまうからだ。待っている時間は長いのだ。この思いは相手への関心でもあるし自己愛でもある。相手に関心があるという意味では良いことだが、他方自分の心の弱さでもあるということも認めなければならない。

 そして人はこういう事情に対処出来るようにならなければならない。こういうことは人生を通していくらでもあるから、その度に相手が悪いことにして意地悪をしたり心の中で罵ったりしても自分の成長には繋がらない。人にはどうしても待たなければならないようなときがある。そして待つという時間のうちで、自分の中の孤独や弱さと向き合うことになる。

 一般的に言えば、人の心はこの意味で弱い。未来に対する不安から占いをつい見てしまったりするのはこういうことのためであるし、拠り所が欲しくなって何でも良いから解答を欲しがるのも、他人に本来言う必要もないことをペラペラと喋ってしまったりするのもこのためである。何かしらの形で不安の穴を埋めて日々を差し当たり生きていくという意味では、こうした不安はむしろごく当たり前のことでもあるが、既読スルーや未読放置はコミュニケーションの拒絶に感じられてしまうことからの不安であるから、相手への攻撃や自己否定に繋がったりするので注意しなければならない。

 不安の穴は人生にいたるところに転がっているのだが(転がっていない人もいるけど)、こういう不安の穴が巨大化して、そこに絶対的な形で答えを埋めることを欲するようになれば宗教である。信仰を欲することになる。孤独が深い人ほど宗教に惹かれるが、宗教はこういう問題への心構えを人に与えるものであるからその意味で人間の心にとって本質的であるし、その必要性が途絶えることは無いだろう。つまりここで私が何を言いたいかというと、既読スルー問題は大袈裟ではなく、人間の究極的な心の問題、不安が生成される仕組みと関係し、孤独の向き合い方の問題と関係するということである。

 そしてこういう問題をどう解決するのか、どう向き合えば良いのかと言うと、それは自分の中で「心構え」を作るしか無いと私は思う。最初からこの心構えが上手いこと出来ているタイプの人たちもいる一方で、当然そうじゃないタイプの人たちも沢山いる。ならばそうじゃないタイプの人たちはどうすれば良いのか。そのことを私はいつも考える。私は人生のステップとして差し当たり「既読スルーの恐怖」は越えているが、じゃあ既読スルーを恐れてしまう人の気持ちがわからないかというとそうではなくて、そういう不安は普遍的で、人生を通じてあるのだと感じる。かと言って、特に現代の日本では特定の宗教への依存が周囲に否定されがちなので、宗教という選択肢を抜かして自分の心の穴を埋めていくことになる(私はそもそも宗教に頼る気はないけど)わけで、じゃあ宗教的ではないやり方で、つまり何かを信ずるということではないやり方で、どういう心構えを持つことが可能かと言うと、

 

「今自分の中に生じている不安は、必ずしも相手と自分との関係上の問題ではない」

 

ということを知ることが最も良いのではないかと思うのだ。

 

2へ続く・・・