ミンクのマフラー
友達からミンクのマフラーをもらった。
見たことないほどの短さで、先っぽには磁気が付いていてスヌード風に使える。
よく知らないが、去年からのトレンドらしい。
プレゼントというものは、自分では絶対に買わないものを「急に」もらう。
この唐突感、飛躍感はまさしくシュルレアリスムである。
何しろ私の手元に突然アメリカミンクの毛皮がやってきたのだ。(中国や北海道で飼育されたものかもしれないけど)
私は最初それをミンクと気づかなくて、悪気なく「これ、何の動物を殺したの?」と言いそうになったが、相手が不愉快になるやも、、と思い、脳裏に浮かんだ言葉を押し殺しておいた。
そうしたらそのあとすぐに友達が、「私これ去年すごく欲しかったんだけど、買えなかった理由の一つが、これのために死んでいる動物が可哀想かなと思って・・・」と言ってきて(この友達の正直さもすごい)、「そうだよねえ!」と私は大きな声で言ってしまった。
私は一応、一通りこういうことについて考えたことはあるから、一通り考えを述べて・・・「人間の矛盾」の話になった。
友達もウンウンと理解した後で、「嫌なら他のものに変えてもいいよ。一日時間をあげるから考えて。私はこの冬はこれと同じものを買うつもりだけど。」と言った。
どうやら彼女は覚悟ができているようだ。
私は帰ってきてインターネット上を軽く調べた。
こういう議論に関してインターネットで出てくる情報と言えば、「No Fur!」運動に参加している芸能人の名前とか、まあ「それほど寒くないから使用の必然性がない」とか、「生きたまま皮を剥いでるかどうか」とか、そういうことだ。逆に毛皮肯定派の議論はあまりパッとするものがあまり無い。こういうものは自然と、否定する文脈の方が強くなるのだろう。
そもそも私は「このファー」(代替がきかない意味での「これ」)が欲しかったわけではないので、そういう情報を見ていると自然につられて、要らない方向に気持ちが進んでいく。
けれども、こういう「つられる」感覚にこそ注意しなければならないような気もしてくる。そもそも私たちは矛盾なく生きることはできないし、いつでも何かを犠牲にして生きているのに、しかもこと「動物の命」に関し、芸能人のNo Fur!運動などにつられて何かを決めてしまっては、却って自己の尊厳が傷つけられてしまうからだ。
私だって動物が好きだ・・・だが「かわいそう」という21世紀的な観点からだけで、人間の文明を安易に否定してしまっていいのだろうか、と考えてみる。
このとき私が想定している「人間の文明」とは、部族の身にまとっている野生的なファッションの事だ。私は実はああいうファッションにこそ生きることのリアルさを感じるし、そういう野生が私たちの中に、少ないけれどもまだ残存しているからこそ、ミンクが周り回って私の手元に来るのかもしれないぞ?とも思うのだ。ならばこれを受け入れてみるのはどうだろう?とも思うのだ。
それに、例えばもしこれが部族同士の贈与の一種だったら・・・と思うと、私はこの贈与を喜んで受け取ったかもしれないと思うのだ。(もちろん私の部族のトーテムによりけりかもしれないが)
ちなみに実際ミンクのマフラーを私にくれた彼女は外国人で(私よりも、動物の殺生に関して多少鈍感なところがある。)、だからこれは現代の部族間贈与っぽくもあるのだ。贈り物は、必ずしもシェアされていない「価値」が自分のところに訪れるのが一つの魅力なのであって、時にはギョっとするようなものを贈られるからこそ、自分自身の価値観を再編・再考する余地が生まれる。
「虫を殺す」でも書いたが、私は動物の殺生に鈍感な野生(言い方によっては「野蛮さ」)というものも嫌いではない。私が既にそうではあれなくなったからこそ、そういう鈍感さが何か純粋なもののように見えることもある。そしてその意味での殺生への鈍感さは、殺生ではない別の事柄への先鋭な感性でもあるだろう。
けれども私のような軟弱者は、「ついつい物欲しさでミンクを射止めてしまい、気づいたら毛を剥がして首に巻きつけちゃっていたの。」というほど、純粋な気持ちでこれを巻けるかというとそうではなくて、この物品の訪れに飛躍を感じ、気持ちに違和感を残してしまっている。
つまるところ、私は自分自身でその動物を殺す覚悟が出来るくらいのナチュラルな野生の感覚が自分の身体性にまだ備わっているのならば、こういったものを正々堂々と身につけていても良い、と思うっているのだろう。だが、私にはまだその覚悟が出来ていない。出来ていないから、違和感が残る。なにせ私が欲しかったから買った「ミンク」ではないのだから。
それでもやはりもしこれが本当に部族同士の贈与の一種であったならば・・・私はこれを家宝のようにして、ずっと携えて生きていくだろう。
ある時は首に巻きつけて、ある時は壁に垂らした装飾品として、ある時は緊急時に淫部を守るものとして・・・
その都度その都度、意味合いを変えて持ち続けるだろうし、そのように大切に出来る感性があるならば、私は堂々とこれを使える。
つまり、「いかに大切に使われるか」とか、またその「時間」も大事な要素だ。
けれども今私が暮らしているのは21世紀の資本主義世界、その交通の激しさから言っても、私は同じ場所に十年と暮らさないし、その場所その場所の気候や風土に適した自分に変化するために、多くのものを捨ててしまう(使わなくなる)だろうことも目に見えている。
だからこそ矛盾が矛盾として浮き彫りになりやすいのだ。
そしてこういうことが目に見えていながらこれをもらってしまえば、私はおそらく「意識的に」この頂きものを大切に保存することになる・・・。
そういう心理的な欺瞞があまりに多くなると、心の衛生上も良くないことが、大人になった今となっては目に見えてしまっている。
ともなれば、死んでしまったミンクも私も、ロストロストだ。
ミンクの死が生きるのは、私がこれを巻いてハツラツとしている時だ。
でも本当は私は、殺生に心を悩ます人間の心を持つ一方で、これをハツラツと巻ける、野生的な感性も欲しいと思っている。
この頂きもののファーを十年と保持し、いつか訪れるアフリカ旅行に嬉々として巻いていくような感性。
「なあに、アフリカは暑いからこんなのいらなかったわ!」とか言って、ポイっとバッグの中に投げ入れる感性。
あるいは「私は自分自身で射止めたミンクを体にまといたいの!」と言って、ミンク狩りに出かけてしまうような野生。
そういう感性が手に入る自信がまだないので、今回はとりあえず「他のもので。」と友人にお願いしたのだけれど、いや、頑張れば今からでもいけるかなあ・・・と思ったりして、ゆらゆらしている。
あるいはその感性を取り戻すために、このミンクは私の手元に回ってきたのだろうか・・・。
AV=恋愛ドラマ
多くの女性に怒られそうですが、
男性がAVを見たいと思うのと、女性が恋愛ドラマ(もしくは漫画)を見たいと思うのは同じだ。
というのが私の最近の持論です。
科学的なデータの裏づけとかは皆無ですが、「シミュレーションによって自分の性別の性的感覚を満たしている」のであれば、物質的であれ精神的であれ、本質的には同じようなものなのだろうな、と思うのです。
要はAVも恋愛ドラマも、男性ホルモン、女性ホルモンなどの身体的バランスの調整をするのに必要なものなんだろうと思う。
その意味で身体的には必要(な時があり得る)だし、精神的には下らなくもある。
AVを見る男性の気持ちは女性には理解しがたいけど、恋愛ドラマを見る気持ちくらいなら、基本そういったものを見ない女性でも何となくはわかるだろう。
ならば「(男性の)AV=(女性の)恋愛ドラマ」という形で二つを結んでおけば、男女がお互いを理解しやすくなるだろう。
女性がそれを認めない可能性は高いけど。
仮にこの「=」を女性が認めた場合・・・
男女のカップルが「お互いを許す」論理にもなるし、また逆に「お互いを否定する」論理にもなります。
どうぞご自由にお使いください。
虫を殺す
生まれてこのかた、虫を殺したことのない人っているのかな、とふと思う。多分、いない。
感覚的であればあるほど、虫を簡単に殺し、害虫呼ばわりをしても気にならず、特に虫の命について考えずに暮らせる。内省のない感覚。
そういう言い回しをしてみるとまるで批判しているように聞こえるが、私はそれを批判していない。私はそれはそれで格好良いことだと思っている。
私は幼少時から虫を殺してはいけない、という教育を受けてこなかった。なぜなら東京の団地には無数のゴキブリがいるのだ。ゴキブリは殺す対象ということで満場一致。間違いがなかった。
母は私にゴキブリを「命」と結びつけて語らなかったし、「ゴキブリは殺して良くて、森の中にいる虫や植物は愛でよ」というような命令が伝えられることがなかった。そこには矛盾がなかったので、思考が生まれることもなかった。
けれども大学に入って周りにハイソな人間が増えてから、環境が変わった。自称ブディストや金銭的に余裕のある暮らしをしていると思われる子息たちの間では、「虫をできる限り殺さない方向性」が良識として膾炙していることに気づくこととなった。
私は面食らった。虫を殺してはならないのか?と彼ら各個人に尋ねて回った。
心ある彼らは断言はしない。彼らの知恵は、自分に矛盾があることを予めよくわかっている。ただ、殺すことをよからぬと思う心を大切にしている模様だった。
私はしばし考えた。
虫を平気で殺す心と、無駄な殺生をしない心と、どちらが格好いいだろうかと。
私はどちらも格好いいと思った。
文面にしてみると、どうも後者の方が格好良いように聞こえてしまいがちだが、前者は本能と結びついていると思うから、やっぱりそれはそれで格好いいと思うのだ。
ここで前者の感覚を本能と言ってしまうと何だか曖昧な表現になる気がするので、例を出したい。
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以前、私は金沢文庫にある珍しい生き物のいるミニ動物園(ペットショップ)で、4つそれぞれのケージの中にいる4匹のリスザルを見たことがある。
私がそのうちの一匹に自分の指を握らせていた時のことだ。4つのケージの前を一匹のハエがサーーッと通った。
すると4匹の猿たちそれぞれが、ラインダンスのように、サッ、サッ、サッ、サッっと手を檻から出して、その虫を捕まえようとする仕草をするのを私は見た。
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それは直感的なものだ。
もちろんそこに善悪の観念はない。
命の重みを考える心もない。
いや、動物と人間は違う、人間は自然の回路から逸脱した思考を持っている、選択することの出来るだけの知性を持っている・・・そのように考えると、確かに無駄な殺生をすべきではないという結論が出る。
しかし本当は人間はいつまでも自然の中にいる。
自己を照らし内省する鏡を持つ人間は、ただそのような自然の中にいるのだと私は思っている。
私たちは内省のための鏡を持っているが、常にそれを見ているわけじゃない。
だから命は重くもあり、軽くもあらざるを得ない。
私たちはいつも命の重みばかりを語られる傾向にあるが、その実、命の儚さをあまりにもよく知っており、そこに何の罪もないことも十分に心得ている。
無駄な殺生はしない・・・そのことが美徳として語られうること。
そのようなことは全て、矛盾に耐え難き魂の、エクスキューズに過ぎないのだ。
と、頭の中ではそのように世界を観じながらも、大学以降、私は虫に出くわすたびに殺すことを躊躇するようになった。外出時はそのような問いはないが、それでもなるべく踏まないようにする。家で出くわすと、蚊とゴキブリ以外は捕まえて部屋の外に出すようになった。殺さないことも出来るにも関わらず、殺してよいものかどうかがわからないのだ。
だが蚊ならどうする。ゴキブリならどうする。蚊を叩くときは躊躇とともに遠慮気味にはたくので、大抵つかまらなくなってしまったが、ゴキブリはお湯をかけて殺してきた。何れにしても、それで良いかどうか、一つ一つ思考に軽く触れながら暮らす。そういう暮らしに慣れてきた。
ところでつい最近、結婚して初めて配偶者のお墓まいりに行き、古いお墓を埋め尽くそうと侵食する夏の植物たちを刈っている人の姿を見て、目がさめるような矛盾を感じた。
一方では死者の命を尊びながら、一方では(同胞ではないにしろ)生者の魂をいとも容易くハサミと鎌で傷つけている瞬間・・・私はそのくっきりとした境界線を見た。
私たちはただ何かを保護したり、ただ他なるものに何かを与え続けたりすることは決して出来ないがゆえに、そこに自己の利己的な心を見出さざるを得ない。自己の利己心への自覚は他人への猜疑心にもなる。意識するかしないかは別にしても、全ては与えられるか奪われるかという力の関係を持っていて、その関係の拮抗をふとした瞬間に自覚してしまうのが人間だ。
私たちの自然とは、それがそういうものと知りながら付き合っていかなければならない自然だ。それは矛盾に満ちている。そのような人間特有の矛盾に満ちている視点を、私は現実社会とは呼ばず、またそれを自然と区分けして考えるのでもなく、あえて自然と呼ぶ。
私たちはそういう矛盾から生まれる諸々の感情に開き直るでもなく、否定するのでもなく、白黒つけずにただ静かに受け入れることが良い。
気づけばふと虫を殺していることもあるだろう。守っていることもあるだろう。どうすべきかと迷って苦しんでいる時もあれば、殺したことに気づきもせず笑っていることもあるだろう。
でもそれが私たちにとっての理想的な自然の形態なのだ、と最近は思う。