情 状 酌 量 。

もやもやしつつ、もやもやしない。

男性の性欲についての友人Hの見解 ー人類基本勃起不全説ー

以前、友人Hが男の性欲についての面白い見解を語ってくれた。

私はその論理を聞くのがなかなか好きで、幾度か説明をしてもらったことがある。

(他の友人によれば、その論理は心理学者の岸田秀に影響を受けたものに違いないとのことだが、何れにしても主旨は次のようなものである。)

 

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まず、人間の男性というのは基本的にインポテンツである。

なぜならば人間の女性は発情期がわからないように進化したから、人間の男性はいつ発情したらいいのかがわからないのである。

根本的に動物は、メスの発情を感知してからのみ、即ち「自らが許容されている場合においてのみ」発情し、交尾を行う。

しかし発情期が感知できないように進化した人間は、このようなサイクルから逸脱してしまった。

人間の女性の尻は赤くならない。発情期特有の分かりやすい匂いを発することもない。

 

レイプが起こるのは、このためだ、と友人Hは言う。

人間が動物のような定期的な発情期を失って、年がら年中発情しているのは、むしろこのような事情によるのだ、と友人Hは言う。

 

一体どういうことか。

 

つまり発情期を失った人間は、繁殖のために「発情する文化」を人工的に作り上げているのだ。

例えば「肌を隠す」ことによって「肌を露呈した時」が発情の合図になる、といった具合に。

そして何よりも、AVやエロ本が存在するのは、我々人類が発情期を失っているためなのだ。

偽の発情期は常に生産され続けている。

そしてこの倒錯した性の形態こそが、社会の様々な問題を生み出しているのだ。

 

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もしかすると細部は若干Hの考えと異なっているかもしれないが、これはなかなか面白い考え方じゃないだろうか。

彼の考えに基づけば、

「男の性欲は強いから、常に処理されなければならない(よってAVやエロ本によって性欲処理をすることは男にとって不可欠である)」

という言説はそもそも「偽」なのである。

インポテンツであるがゆえに生み出された発情のためのカルチャーが存在することによって、「男の性欲が生産され続けているにすぎない」のである。

もっと言えば、すべての性犯罪は「男性の性欲が強いことに起因する(そのうちのコントロールが効かなくなった一部の男性が犯罪を犯してしまう)」のではなくて、「倒錯した人間の性欲の形態の問題」なのである。

 

私はこの論旨を理解するのに結構な時間を要した。

それは恐らく「男性の性欲が一般に強いこと」を常識とする考えが私の中にあったからだろう。

 

果たしてこのHの考えに対して、男性自身は一体どう考えるのだろうか。

そもそもこれは人類学者や心理学者などが討論するに値するアカデミックな視点であるから、教養のない凡人がすぐさま聞いて頷けるようなものじゃないかもしれない。

けれどもこれは非常に面白い考え方で、

「男性がいざ性行為に及ぼうとして緊張して勃たなくなる」

といったような一般的な事象を十分に説明しうる論理でもある。

この説に基づけば、

「女性に許容されているかが不確かである限り、男性は本来勃たない」

のが当然なのであり、勃起不全は病気ではない、ということになる。

だから勃起不全の男たちも、そのことで悩む必要などあまりないように感じられてくるかもしれないし、

また女性たちがこの見解を前提にすれば、女性たちは性行為の際、まずは男性を安心させることに配慮をするようになるかもしれない。

 

また男性の性欲たるものがいかなるものかを考えることは、一般的な生活の上ではあまり必要がないことのように思われるかもしれないが、社会問題を考えるときに不可欠になる。

例えば従軍慰安婦問題を考える際、あるいは世の中にはびこる強姦をいかにして減少させられるか、という問題を考える際、

「男性の性欲の強さを自明のものとして考えるかどうか」

は、実に根本的な問題である。

 

実際私は従軍慰安婦の問題を考えている時に、Hに意見を伺い、その際にHの中からこのような根本原理についての話が出てきたのだが、

他の人々が、男性の性欲の強さを自明のものとした上で論理を組み立てていくのに対して、Hだけが根底をひっくり返すような意見を私に与えてくれた。

 

現在であれば「そもそも"男性の性欲"を一括りにはできない」といったような、多様な性のあり方を主張する意見もあるであろうし、

あるいは人間の性欲の強さには栄養過多といったような医学的要因だって重なっているに違いないのだが、

とはいえこの一般常識に反したHの考え方が一考に値することだけは確かだろうと思う。

大人になると本当のことが言えなくなる

「大人には本音と建前がある」と思われているくらいなら、それはまだ救いようがある。

何が本音かが明らかであるからだ。

 

そうではなくて、大人になると本当のことがわからなくなり、そして言えなくなってくるのを感じる。

 

心の奥底で、本当のことのように思われていることが一体何なのかがわからないのだから、基本的には気にしていない。気にしようがない。

ただ時々、誰かの語気の強い語りがかつての自分に突き刺さる時、「ああ、自分には本音がなくなっているのだな」と気づく。

 

別に大人になるというのは悪いことじゃない。

私が問題にしているこのことの本質において、大人になるということは「一般的なるもの」に準ずるようになること、である。

ある物事の背後にそれ以外の可能性を、より多く感じられるようになること。

そしてそれは精神が中庸状態になることでもあり、「それもわかる、あれもわかる」(=物分りが良くなる)が故に、明確な批評精神を失いかける、ということでもあるが、

他方、対峙する物事の仲裁を行うことが出来るような知性が備わってくる。

 

でも、何かをきっかけに、ふとかつての自分の思いが一旦前に出てきてみると、

それを失ってしまった自分に気がついた私は、寂しい。

大海に落ちた一滴の水のような、拠り所のない気持ちだ。

人は色々な人の思いに共感するうちに、自分が誰だかがわからなくなる。

人と思いを共有することにはそれ自体に価値があるように思われるのに、

それ自体は成長であったはずなのに、

自分自身というものが消えて、何を見ても共感出来るようになった私は、

本当は何にも感動していないのではないか?・・・と疑われてくる。

 

あれも、これもと、様々なものを美しいと感じる心が、

よどみなく流れる川のようになってしまったことを、

「消費者根性丸出しではないか」と批判する自分がまだどこかに残っているだけ、

私は自分自身が幾分かまだマシな方だと思いたいが、

何かを批判することもなく、中庸的で、自分自身も悩みのない者になることが、果たして私の人生の目的だったのだろうかと思うと、そうではなかったはずだと言わざるを得ない。

風水を哲学する1

最近引っ越しをした。

引っ越しをすると、気分が一新されて「インテリアをどうしようか?」という楽しい問題にぶつかる。

しかし哲学をする人間にとって「何かを選ぶ」というのはすごく難しいことだ。

一つのソファを選ぶのも、「本当にこれでなければならない必然性があるだろうか」ときたもんだ。

そんなこと考え出したら、疲れて頭が痒くなってしまう。

全てのことに必然性などないのだから。

・・・買いたくても買えない。

他人が欲しがるものを自分も欲しがるという「欲望」がないが故の悪循環に陥る。

仮に欲しいものがあったとしても値段が高すぎたりして、ノマド的人種が所有するには全く合っていない。

高いものを中古で売買するという手法もなくはないが、そこまでこだわりたいかというとそうでもなく・・・猫もいるから汚れるし・・・とか言っているうちに訳が分からなくなってくる。

いろいろ考えているうちに結論が出なくなり、結局スカスカの部屋で暮らす。

考えすぎる人間にはそういう「前に進めない」というデメリットがある。

 

それで、こういう時には古(イニシエ)の知恵に頼ろうではないか。と思ってみたりする。

これを機に風水でも学んでみよう。というわけだ。

風水というのは占いと同じで、「拠り所のない人たち」に、「拠り所を与えるもの」である。

結果として拠り所になりうるかどうかはわからないにしても、私だって、一度は鬼門がどうこう言ってみたい。「西側に黄色のものを置くとどう」とかいう縛りに苦しめられてみたい。

というのは嘘だけれども、そういうことを言う人たちが、どういうつもりでそういうことを言い出すのかを知りたいのだ。

そんな軽い気持ちで風水のアプリをダウンロード。

今時はお手軽なもので、「風水コンパス」というものがあって、方角にふさわしい色をスパッと教えてくれるので、ゲッターズ飯田いらず。

 

風水の基本的な考え方は、「気が良くなる=運気上昇」。

だから気をよくするために、方角の持つ「気」(水の気とか火の気だとか)に逆らわぬよう色を合わせて行ったり、幾つかの注意事項を守るというもの。

その注意事項のうちには根拠がわからず馬鹿馬鹿しく思えるものも沢山あるが、中には根拠がわかるようなものというのもある。

「ゴミ箱は蓋の閉まるものを使用する。」などが根拠がわかるいい例だ。

例えば台所のゴミ箱などだと、水気があるから単純に放っておくと腐乱したゴミに虫が寄ったり悪臭が漂ってくる。

アニミズム的視点の眼鏡をかけて見ればわかることだが、そこに良い自然の精霊がいるとは思われない事態となるから、その空間を遮断しつつ保ち、なるべくこまめにゴミは捨てましょう。ということだ。

これは人が「当然」と感じられるくらい、生理的感覚に等しいものだ。

部屋の中に「淀み」を作らないで、いつも「良い気」が循環しているようにすることが風水上、恐らく最も大事なことなのだ。

(こういうことを馬鹿馬鹿しいと思う視点も大事だと思うが、とりあえず風水はそんな感じだ)

 

「方角の持つ気」などについては、私には一体何の根拠があってそうなっているのか、現時点ではまるでよくわかっていないけれど、それらも恐らく気についての抽象的思考も出来る古代の専門家たちが思考に思考を重ねた末の結論なのであろうから、数年は保留しつつ考えることにして、、、

とりあえずは「気の淀みをなくす」という風水の基本が分かれば、あとは自分でその流れを感じ取る目を養い、それに応ずる家具の配置などを思考していけば良いのではないかと思う。

これは別に「原理がわかればあとは自分勝手にやっていい」という意味ではなくて、「視点の中枢に同じ原理が据えられれば、あとは大体同じような結論が出るであろうと思われる」、ということだ。

この意味ではルールに従って無理やりに整合性を取るよりも、「いま・ここ」にあるものたち、気の流れを自分で感じて、臨機応変に変更を加えていく方がよっぽど現実に即した形式を手に入れることが出来るだろう、ということである。